2015年9月22日撮影の美山かやぶきの里です。
蕎麦の白い花が満開でまるで雪が降ったかのよう~。
稲や麦の茎は吸水性がありますが、萱(チガヤ、スゲ、ススキなど)の茎には油分があって耐水性に優れています。
そのため屋根材として用いられるようになったのですね。
萱で屋根を葺くためには大量の萱が必要です。
そこで集落に萱場といって萱を育てるための場所を作っています。
美山にも集落の川向うに萱場があるそうですが、撮影するのを忘れていました・・・。
(上の写真は民家の傍に生えていたススキ)
縄文時代から平安時代ごろまで庶民が住んでいたとされる竪穴式住居の屋根も茅葺であったと考えられ、茅葺で復元された竪穴式住居が各地に作られています。
茅葺屋根の民家のルーツは竪穴式住居なのでしょうか?
ところで竪穴式住居が茅葺であったと考えられているのはなぜなのでしょう?
地面に掘った穴は残っていても、屋根材は腐ってしまって残っていなかったのではないでしょうか。
これについてネットで少し調べてみたのですが、どうやら竪穴式住居の屋根材が萱であったというのは証拠があるわけではなく、想像されたもののようです。
登呂遺跡の復元竪穴式住居を作る際、、近世の高殿とよばれる砂鉄製錬所の建物を参考にしたそうです。
なぜ高殿を参考にしたのかというと、竪穴の形や柱の穴が竪穴式住居のものによく似ていたからなのだとか。
ところが、1986年、群馬県の中筋遺跡を調査したところ、『ちょっと違うぞ』ということになったようです。
中筋遺跡は1500年ほど前に榛名山が大爆発した際、一瞬のうちに火砕流に埋まった集落の遺跡でした。
そのため竪穴式住居の構造部材の痕跡が残っていたそうです。
その痕跡から、中筋遺跡の竪穴式住居の屋根は茅葺の上に土を盛っていたと推測されたようです。
また、岩手県の御所野遺跡から竪穴式住居跡が発見されました。
この竪穴式住居の焼失住居跡を調査したところ、炭化材に萱は全くなかったそうです。
そのため、御所野遺跡の竪穴式住居は土屋根であったと考えられています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%BE%A1%E6%89%80%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85.JPG上記ウィキペディアの写真を見るとまるで円墳のようにも見えて衝撃的ですね!
案外、竪穴式住居は土屋根が主流だったのかも?
いつも応援ありがとうございます♪
にほんブログ村
にほんブログ村