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浮見堂 三笠山 百日紅 『三笠の山に出でし月とは光明皇后のことだった?』※追記あり 

荒池がアンツーカーの競技場に?

荒池 浮草

塔百景51


「アイオオアカウキクサ」という水草なのだそうです。
雨が降らず水が流れない状況に加えて、1〜2週間続いている高温で、大発生したのではないかとのこと。
池の中に光が届かなくなって生態系に問題あるかも?
でも水草も一生懸命生きているんですよね。

荒池 鴨


鷺池では百日紅の花が咲いていました。
遠くに見えている笠のような形の山は三笠山です。

浮見堂 三笠山 百日紅


三笠山を詠んだ有名な歌がありますね。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも/阿倍仲麻呂

717年、第9次遣唐使が派遣されることになりました。
遣唐使に選ばれた人々は春日大社の背後にある三笠山(御蓋山)の麓で航海の無事を神に祈り、唐へ向かって出発しました。
三笠山は遣唐使として出立する人々が航海の安全を祈る場所だったのです。
遣唐使の中には阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らがいました。

 718年、光明皇后は聖武天皇の皇女・阿倍内親王を出産されました。

735年、吉備真備・玄昉らは帰国しましたが、阿倍仲麻呂は唐で役人になって帰ってきませんでした。

749年、阿倍内親王は即位して孝謙天皇となり、752年に第12次遣唐使を派遣しました。
このとき孝謙天皇は次のような歌を詠んでいます。

四つの船 早帰り来と しらかつく 我が裳の裾に 鎮ひて待たむ
(四隻の船よ、早く帰ってくるように。しらかをつけたこの我が裳の裾に祈りをこめて待っています。)

※しらか/麻やこうぞを細く裂いて幣帛としたもの。

また、孝謙天皇の母親の光明皇太后(光明皇后)も入唐大使・藤原朝臣清川に次のような歌を贈っています。

大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
(大きな船にたくさんの櫂を取り付けて、わが子を唐へ遣わします。神々よ、護り給え。)

※藤原清川は光明皇太后の甥で子ではありません。
光明皇太后は国家の皇太后という立場からが清河を『この吾子』と表現したと考えられています。

遣唐使たちを乗せた船は無事唐へ到着し、翌753年、阿倍仲麻呂は藤原清川の船に乗って日本に帰ることになりました。
日本に帰国する前日、唐の役人たちは仲麻呂との別れを惜しんで宴を開きました。
その席で仲麻呂は歌を詠みました。

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも
(夜空を仰ぎ見ると月が出ていた。奈良の都で三笠の山から上る月と同じ月なのだなあ。)


ところが、仲麻呂が乗った船は暴風雨に会って長安に戻り、仲麻呂は日本に帰れないまま、唐で没しました。

「暗闇を照らす光」のことを光明といいます。
暗闇を照らす光とは月のことではないでしょうか。
阿倍仲麻呂の歌にある「月」とは光明皇太后のことではないか、と私は思うのです。

 阿倍仲麻呂が唐へ行った翌年、光明皇后(光明皇太后)が聖武天皇の皇女・阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しているのが気になります。
阿倍内親王という名前は阿倍氏と関係の深い人物であったところからつけられたのではないかでしょうか。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には、孝謙天皇(称徳天皇)は蝦夷の安倍一族の出身であり、あるとき朝廷軍は蝦夷軍に大敗し、それによって蝦夷の安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められたと記されています。
正史では孝謙天皇は聖武天皇の皇女で母親は光明皇后(=光明皇太后)となっていますが。
東日流外三郡誌は後世に作られた偽書とされていますが、気になる記述です。
正史は為政者の都合のいいように書き換えられている可能性もありますし。

阿倍仲麻呂は安倍仲麿とも記されます。
阿倍内親王は聖武天皇の皇女とされていますが、本当の父親は阿倍仲麻呂だってりして?
第12次遣唐使は阿部仲麻呂を日本に帰国させる目的で派遣されたのではないでしょうか。
孝謙天皇(阿部内親王)と光明皇太后は父または愛しい男を迎える喜びをこめて上記の歌を詠んだのかもしれません。

だとすると阿倍仲麻呂が唐にとどまって日本に帰ってこなかったのは、聖武天皇の妻である光明皇太后を孕ませてしまったためではないか、などと考えてしまいます。

まいど、とんでも説で失礼しました~。


浮見堂 月  


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[2015/08/18 00:39] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)