①百鬼夜行は陰、それを陽に転じたのが山鉾巡幸?祇園祭 山鉾巡行 『山鉾巡行と百鬼夜行』 ↑ こちらの記事にこんなことを書きました。
①山鉾のうち、太子山の聖徳太子、占出山の神宮皇后、黒主山の大友黒主、菊水鉾の菊慈童は怨霊ではないか。
②怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人のことで、古には疫病の流行や天災は怨霊のしわざで引き起こされると考えられていた。
③怨霊が祟らないように慰霊し、神として祀ったもののことを御霊という。
④百鬼夜行は陰で、それを陽に転じたのが山鉾巡行だったりして?
聖徳太子が怨霊であるとする梅原武さんの説については上の記事をお読みください。
②菊の葉の露を飲んで700歳の長寿を得た菊滋童今日は菊水鉾の菊慈童についてお話ししたいと思います。
上の写真の山鉾に乗せられている人形が菊慈童です。
菊慈童とは700歳の長寿であったという中国の伝説に登場する少年です。能の演目にもなっていますよ~。
鉾の前懸は皆川月華作の「飛鶴図」です。
魏の文帝 はレッケン山に不老長寿の薬が流れているという噂をきき、「様子を見てまいれ」と臣下を山に行かせました。
山には不思議な少年がおり「私は周の穆王に仕えていました。」と言いました。
周は700年も前の時代です。
少年はさらに穆王より賜ったという枕を見せました。
その枕に記された経文を菊の葉に書くと、その葉より滴る露は不老長寿の薬となりました。
少年はその露を飲んで700歳の長寿をえていたのでした。京都の法輪寺では9月9日に重陽神事を行っており、菊慈童の舞が奉納されます。
③惟喬親王、法輪寺に籠って虚空蔵菩薩より漆の製法を授かる。平安時代、この法輪寺に惟喬親王が籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説があります。
大皇器地祖神社大皇器地祖神社では惟喬親王を木地師の祖として祀っています。
惟喬親王は巻物が転がるのを見て木地師が用いるろくろを発明したというのです。
木地師資料館の惟喬親王像
下の女性と男性が轆轤を使って器を作っています。
上の写真は木地師資料館に安置されていた惟喬親王像です。
惟喬親王は大きな茶椀を持っています。
木地師がろくろを用い作った茶碗には漆を塗りますね。
それで法輪寺には惟喬親王が虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったなどという伝説が伝えられているのかもしれません。
法輪寺③漆と即身仏しかし、それだけではなく、漆は不老長寿にも関係していそうです。
昔、即身仏になることを目指した人が大勢いました。
今でもいくつかのお寺で即身仏が祀られていますね。
即身仏になる目的は、56億7000万年後に弥勒菩薩が現れたとき、生き返ってその聖業に参加するためだといいます。
ひからびた即身仏が生き返ったという物語も残されています。
おそらく生き返るためには魂の入れ物である肉体が必要だと考えられていたのではないでしょうか。
即身仏となるためには木食といって、五穀を絶ち、木の皮や実だけを食べるという修行を行いました。
その後、漆を飲んで入定したと言われます。
漆には防腐作用があり、死後腐りにくくするために漆を飲んだと言われます。
法輪寺 重陽神事④漆と髑髏(どくろ)本尊また真言立川流ではドクロに漆を塗って髑髏本尊を作りますが、これを袋に入れて7年間抱いて寝ると8年目にドクロは命を持って語りだすとされています。
ドクロは生き返るということでやはり不老長寿と関係がありそうです。
法輪寺 重陽神事⑤重なる菊滋童と惟喬親王のイメージうむむ~、すると菊慈童が飲んでいた露とは漆ではないか。
惟喬親王が法輪寺に籠り、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったという伝説が残されているのは、惟喬親王が即身仏やドクロ本尊と関係があるからではないか。
法輪寺で重陽の節句に菊慈童の舞が奉納されるのは、菊慈童と惟喬親王のイメージが重ねられているからではないか。
などと思えてくるのです。
惟喬親王は世継ぎ争いに敗れた政治的に不幸な身の上で、御霊として玄武神社や惟喬神社に祭られています。
つまり惟喬親王は怨霊だったのです。
菊水鉾にはそんな惟喬親王の霊が乗っているようにも思えるのです。

玄武神社 やすらい祭※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。
歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

にほんブログ村