京都市左京区 大蓮寺
2015年7月中旬 撮影
①仏教嫌いの後光明天皇がお寺に安産祈願するかあ?大蓮寺は1600年、専蓮社深誉上人が開いたお寺です。
1650年、後光明天皇は大蓮寺に典侍・庭田秀子の安産祈願をするよう命じました。
秀子は無事孝子内親王をお産みになられ、ここから大蓮寺は安産祈願の寺として信仰されるようになったとされます。
ううーん、でも後光明天皇がお寺に安産祈願するとはちょっと思えないです。
というのは、後光明天皇は仏教が大嫌いだったのです。
仏教を「無用の学」と言ったり、仏舎利を捨てたというエピソードも残されています。
②後光明天皇毒殺説孝子内親王が生まれた4年後の1654年、後光明天皇はわずか22歳で崩御されました。
急な死であり、毒殺ではないかと噂されたようです。
後光明天皇の子は孝子内親王だけで、男子がありませんでした。
そのため後光明天皇崩御後、異母弟の霊元天皇が跡継ぎと決められました。
しかし霊元天皇はこのときまだ生まれたばかりでした。
そのため中継ぎの天皇として異母弟の後西天皇が1655年に即位し、1663年に霊元天皇に譲位しました。
皇女孝子は1683年に内親王宣下を受けています。
現代では、男でも女でも元気に生まれてくれればいい、と思う親がほとんどでしょう。
しかしこの時代のことを考えると、庭田秀子はできれば女子ではなく男子を生んで皇位をつがせたかったことでしょうね。
③皇子ではなく、皇女が生まれますように!後光明天皇の父親は後水尾天皇、母親は園基音(そのもとなり)の妹の光子でした。
また基音の娘・国子は後水尾天皇の後宮に入って霊元天皇を出産しています。
園家は二代にわたって天皇の外祖父を出したことによって、家の格をあげています。
大蓮寺に庭田秀子の安産祈願をさせたのは、後光明天皇ではなく、園基音かも?
そして安産祈願といいますが、「皇子ではなく皇女が生まれますように」と祈ったのではないかと思ったりします。
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