
千早赤阪村の棚田に夕陽が沈んでいきました。

棚田のそばには「赤坂城跡」と記された石碑が建てられていました。
赤坂城とありますが、赤坂城と呼ばれる城は上赤坂城(千早赤阪村上赤阪)と下赤坂城(千早赤阪村森屋)がありました。
この石碑が建てられているのは下赤坂城があった場所です。
どちらの城も楠木正成が建てたものです。
1331年、後醍醐天皇は倒幕を志して笠置山で挙兵しました。
後醍醐天皇に加担した楠木正成はこの地に下赤坂城を築いて挙兵しましたが、にわかづくりの下赤坂城は落城してしましました。
正成は金剛山に潜伏し、下赤坂城を奪還しますが再び落城します。
その後、上赤坂城・千早城を本拠として楠木軍は幕府軍と戦い続けました。
1333年、鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇が建武の親政を行います。
楠木正成は後醍醐天皇の信任をえて建武の親政を支えました。
しかし不公平な恩賞に不満が出るなど建武の親政はうまくいきませんでした。
そんな中、足利尊氏が離反します。
後醍醐天皇は尊氏討伐を命じます。
1336年、尊氏は『摂津豊島河原の戦い』で新田軍に敗れ九州に下りますが、勢力を盛り返し光厳上皇を奉じてふたたび京に向かいます。
新田義貞・楠木正成の軍は『湊川の戦い』で尊氏軍と戦いますが敗れ、楠木正成と弟の正季とともに自害しました。
勝利した尊氏は室町鎌倉を開き、光厳上皇の兄の光明天皇が即位します。(北朝)
一方、後醍醐天皇は吉野に南朝を開きましたが、南朝はしだいに衰退し、1392年に南朝は解消されました。

上の写真は千早赤阪村にある建水分神社 の摂社・南木神社の鬼瓦ですが、武士の顔になっていますね。
平成16年に南木神社社殿改修工事を行っていますので、そのときに造られたものではないでしょうか。
南木神社は楠木正成をお祭りする神社なので、楠木正成の顔を鬼瓦にしたのだと思います。
創建は正成が亡くなった翌年の1337年です。
正成は湊川神社(神戸市中央区)の御祭神でもありますね。
古には神と怨霊は同義語であったといわれます。
怨霊が祟らないように祀ったのが神であるというのです。
正成は死後怨霊になったと考えられていたではないでしょうか。
太平記にも正成の怨霊が美女に化けて大森彦七盛長(湊川の戦いで足利側についていた武将)を襲ったという物語が記されているそうです。
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