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霊山寺 薔薇会式・えと祭 『鼻高仙人の正体とは』 

5月第3日曜日(2015年は5月17日)、霊山寺で薔薇会式・えと祭が行われます。
詳しくはこちらをご覧ください。→http://www.ryosenji.jp/schedule_11.html

このころ、霊山寺・薔薇園の薔薇が見頃となります。
その薔薇をご本尊の薬師如来にお供えする法会がご本尊薬師如来と八体仏にバラの花をお供えし、境内を干支の面を被った人が練り歩きます。

霊山寺 えと祭り


写真は去年撮影したものです。
兎の面は奈良時代の女性の髪型・双髻(そうけい)髷を長くして耳のように見せていますね。

↓ こちらは大阪歴史博物館で撮影したものです。
女官の人形が双髻を結っています。

大阪歴史博物館 女官 

霊山寺には次のような伝説があります。

小野妹子の子の小野富人は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住みました。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭しました。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げました。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けました。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼びました。

728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼになりました。
このとき、安倍内親王の父・聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、「湯屋の薬師如来に祈れば治る」とお告げがありました。
聖武天皇は行基に登美山を参拝するよう、命じました。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復しました。
734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけました。


壬申の乱は672年に勃発した内乱です。
天智天皇の皇子の大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位しました。
敗れた大友皇子は自害しました。

小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたということなのでしょう。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がありません。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金です。

伝説では小野富人は小野妹子の子であるとしています。
しかしウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっていますが、富人の名前はありません。

672年、本当の右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹です。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となりました。
672年の壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦っています。
しかし大友皇子側が敗れ、金は捕えられて処刑、金の子孫は流罪となりました。

この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年(669年?)に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中の佐久奈度神社です。

この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面があります。
(参照→ http://sakunado.jp/yuisyo.html
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものだとされます。

鼻高面は赤い顔をした天狗の面です。

霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とありました。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金でした。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面があります。

鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物なのではないでしょうか?

中臣金は672年に死亡していますが、小野富人はこの年から登美山に住んでいます。
登美山に住んだ小野富人とは、死んだ中臣金の霊なのかも?

「小野富人が薬湯を作った」とは「小野富人の霊が薬湯を作った」という意味だと思います。

今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言ったりしますね。


霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879
 
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[2015/05/17 00:00] 奈良の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)