毎年5月14日、當麻寺では「二十五菩薩練り供養」を行っています。
「二十五菩薩練り供養」は「當麻のお練り」と呼ばれて親しまれています。
「境内の西にある本堂(曼荼羅堂)から、境内の東にある娑婆堂まで来迎橋がかけられ、その上を二十五菩薩がゆっくりと練り歩いていきます。
「當麻のお練り」は當麻寺に伝わる中将姫伝説を再現したものです。
中将姫伝説とは次のようなものです。
藤原鎌足の曾孫・藤原豊成と妻・紫の前(品沢親王の娘)には長い間子供ができませんでしたが、長谷寺の観音様に祈願したところ、中将姫を授かりました。
紫の前はまだ幼い中将姫を残して亡くなり、藤原豊成は照夜の前を後妻にしました。
照夜の前はことあるごとに中将姫を継子いじめしていまし
た。
760年、豊成が諸国巡視の旅に出かけた際、照夜の前は従者に中将姫を殺すようにと命じました。
しかし従者は中将姫を殺すにしのびず、雲雀山に置き去りにしました。
中将姫は雲雀山に草庵を結び念仏三昧の生活をおくっていましたが、1年後、遊猟にやってきた父・豊成と再会して都へ戻りました。
中将姫は淳仁天皇より後宮へ入るよう望まれましたが、これを断り、出家して當麻寺に入りました。
26歳のとき、長谷観音のお告げにより當麻曼荼羅を織りあげました。
29歳のとき、阿弥陀如来をはじめとする二十五菩薩が来迎して中将姫は生きながらにして西方浄土に向かいました。
伝説では中将姫の父親の藤原豊成は藤原不比等の曾孫となっていますが、実際は不比等の孫です。
そして、中将姫の母親の紫の前は品沢親王の娘、照夜は橘諸房の娘だとしていますが、ネットを検索してみても品沢親王や橘諸房という人物は中将姫伝説以外にはでてきません。
品沢親王や橘諸房、その娘とされる紫の前、照夜などは想像上の人物なのかも?
また伝説では豊成は760年に諸国巡視の旅にでかけたとありますが、実際には豊成は757年から難波の別荘で隠遁生活を送っていました。
豊成の息子の藤原乙縄が橘奈良麻呂の乱に与したとして日向に左遷され、豊成も大宰府に左遷が決定しました。
豊成はこれに抗議する意味で、病気と称して難波の別荘にこもったのです。
豊成が都へ戻ったのは764年ですが、伝説では761年に中将姫と再会して都へ戻ったとしています。
このように史実と一致しない点や、実在しない人物が登場するところをみると、中将姫も実在せず、物語の中で創作された人物なのではないでしょうか。
ただ、さすがに天皇を創作するのは憚られるので、天皇は実在した人物の名前を用いたのではないかと思えます。
天皇以外にひとりだけ登場する実在する人物が藤原豊成です。
奈良町の徳融寺は藤原豊成の邸宅跡とされ、境内には豊成と中将姫の供養塔があります。
私は豊成が難波に隠遁していたというのが気になっています。
中将姫ゆかりの寺である當麻寺は二上山のふもとにあります。
奈良から見ると二上山は西の方角にあって、夕日は二上山の方角に没します。
二上山は夕日が没する山だという認識が、古の奈良の人々にはあったと思われます。
そして二上山の向こう側には西方浄土があるとも考えられていたことを、當麻のお練りの行事は示しているように思えます。
豊成が隠遁していた難波は二上山の西、夕日が没する場所にあります。
難波は西方浄土だと考えられていたのではないでしょうか。
とすれば、生きながらにして極楽浄土に行ったのは、豊成ということになります。
それではなぜ豊成の娘として中将姫という女性が創作され、彼女が極楽浄土に行くという話になったのでしょうか。
神はその表れ方によって御魂(みたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)に分けられるとされます。
御魂とは神の本質、和魂は神の和やかな側面、荒魂は神の荒々しい側面のことをいいます。
また女神は和魂を、男神は荒魂をあらわすという説があります。
御魂・・・神の本質・・・男女双体(藤原豊成)
和魂・・・神の和やかな側面・・・女神(藤原豊成の和霊=中将姫)
荒魂・・・神の荒々しい側面・・・男神(藤原豊成の荒霊)
藤原豊成の和魂として創作されたのが中将姫なのだと思います。
※當麻寺についての記事は今までに3つ書いています。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-286.html?q=%E7%95%B6%E9%BA%BB&charset=utf-8こちらもお読みいただけると嬉しいです。
塔百景46 當麻寺の牡丹はもう終わっちゃったかな?
當麻寺・・・奈良県葛城市當麻1263
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