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久安寺 躑躅 『妖怪・鵺と猪早太』 

久安寺 躑躅

久安寺は平安時代に賢実上人が鳥羽天皇の皇后の安産祈願を行ったところだと伝えられています。
その結果、皇后は近衛天皇をお産みになられました。 

この近衛天皇が鵺に怯えたという話が平家物語に記されています。

近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、源頼政が警護にあたりました。
深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という鵺と呼ばれる怪物が現れました。
頼政は弓で鵺を射、郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留めました。
その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流しました。


私は鵺とは近衛の異母兄・崇徳の生霊ではないかと考えています。
というのは、近衛の崩御は、前帝・崇徳が呪詛したためだという噂があったからです。
崇徳の呪詛を妖怪の形にしたものが鵺だといってもいいかもしれません。

崇徳と近衛はともに鳥羽天皇の皇子とされています。
しかし『古事談』には、崇徳の本当の父親は鳥羽ではなく鳥羽の祖父・白河であると記されています。
白河は養女としていた藤原璋子を鳥羽に与えたのですが、このとき璋子は白河の子である崇徳を身籠っていたというのですね~。
鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで嫌っていたそうです。
「叔父子」とは、叔父にして子、という意味です。

崇徳は1123年に4歳で即位しましたが、1141年、鳥羽に退位を迫られて異母弟の近衛に譲位しました。
近衛は崇徳の養子として即位するはずだったのですが、譲位の宣命には「皇太弟」となっていました。
近衛が皇太弟であると崇徳は院政が行うことができず、崇徳が上皇となってからも鳥羽が権力を握っていました。
どうやら崇徳は鳥羽に騙されたようです。 
崇徳が近衛を呪詛したというのが本当なのかどうかはわかりませんが、崇徳が不満をつのらせていたことは確かでしょう。

近衛が17歳で崩御したのち、崇徳の第一皇子・重仁親王が次期天皇として有力視されていました。
ところが崇徳を嫌う鳥羽は後白河(崇徳の同母弟)を天皇としました。
1156年、崇徳は保元の乱を起こして後白河と争いますが、後白河側が勝利して、崇徳は讃岐へ流罪となりました。
崇徳が流刑地の讃岐で没したあと、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ヶ谷の陰謀などがおこりました。
また建春門院・高松院・六条院・九条院らが相次いで死去し、これらは崇徳の怨霊の仕業であると考えられました。

さて、鵺伝説の中で鵺を太刀でしとめた郎党の名前は猪早太でしたね。

古代、九州に住んでいた民のことを隼人といいました。
奈良時代、隼人たちは畿内に強制移住させられ、宮廷の警備の仕事をさせられていました。
隼人たちは犬の鳴き声をまねて警護を行っていたそうです。
ここから、早は隼人=犬=干支の戌、また猪は干支の亥を表し、猪早太とは干支の戌亥(いぬい/乾)を表すとする説があります。

乾は八卦では全陽を表しています。

一方鵺は頭が猿とありますが、これは干支の申または羊申(ひつじさる/坤)を意味しているのではないでしょうか。

坤は八卦では全陰で、乾と正反対の符です。

陰陽道では陰が極まると陽に転じると考えます。
またウィキペディアの「祟り神」の項目には次のように記されています。
「祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9F%E3%82%8A%E7%A5%9E より引用

この「荒御霊は手厚く祀ると守護神になる」とする考え方は陰陽道の「陰が極まると陽に転じる」という考え方からくるものだと思います。

ということは、猪早太(戌亥=乾)とは、鵺(未申=坤)が陽に転じたものなのではないでしょうか。。
鵺=崇徳の生霊と考えれば、崇徳の陰の気が、陽に転じたものが猪早太だということになります。


久安寺・・・大阪府池田市伏尾町697



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[2015/05/08 21:28] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)