玄武神社 やすらい祭 『胴体がなく、首の長い神様』 より続きます
↑ 前回の記事で私は次のようなことを書きました。
①古の人々は蛇を胴体がなく頭部に長い首がついた動物だと考えたのではないか。
②大神神社の御祭神・大物主は蛇神とされるが、胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。
③惟喬(これたか)親王を祀る玄武神社には三輪明神(大神神社の神)を祀る社があり、大神神社で行われた鎮花祭をルーツとするやすらい祭を行っている。
④惟喬親王が木地師の用いる轆轤(ろくろ)を発明したという伝説があるが、親王が轆轤を発明するとは考えにくい。
轆轤は妖怪・ろくろ首を思わせる。
惟喬親王もまた胴体がなく頭部に長い首がついた神だと考えられていたのではないか。トンデモ説だよ~、と思われた方もおられるかと思います。
なので、もう少し惟喬親王の謎を追い求めて旅をすることにしましょう~。
↓ 滋賀県東近江市君ヶ畑にある金龍寺です。
惟喬親王は平安時代の人物で父親は文徳天皇、母親は紀静子でした。
文徳天皇には藤原明子との間に惟仁親王(のちの清和天皇)という皇子もありました。
文徳天皇は長子で聡明な惟喬親王を皇太子にしたいと思っていましたが、当時は藤原氏が強い権力を持っていたため、惟仁親王が皇太子となりました。
皇太子争いに敗れた惟喬親王は小野の里に隠棲したとされます。
小野の里とは京都の大原あたりとされ、大原には惟喬親王の墓もあります。
しかし君ヶ畑ではこれとは別の伝説を伝えています。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王は君ヶ畑に隠棲し、法華経の軸が転がるのを見て轆轤を発明。
そしてこれをこの土地の住民に伝え木地師が生まれたというのです。
金龍寺はこの地で惟喬親王が住んだ高松御所跡とされます。
↓金龍寺境内には小さな社がありました。
社の向かって右にある石碑には「惟喬親王勧請 鎮守神 御池大龍権現 天狗堂大僧頭権現」と記されていました。
「惟喬親王が勧請した御池大龍権現と天狗堂大僧頭権現をお祀りしています」というような意味でしょうか。
↓ 金龍寺の隣には
惟喬親王の墓がありました。
↓ 金龍寺から歩いて数分のところに大皇器地祖神社(おおきみきじそじんじゃ)にがありました。
大皇器地祖神社の御祭神は惟喬親王です。
かつて政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者は死後怨霊となり、疫病や天災をもたらすと考えられていました。
世継ぎ争いに敗れた惟喬親王も死後怨霊になったと考えられた結果、神として祀られたのでしょう。
前回ご紹介した玄武神社の御祭神も惟喬親王でした。
↓ 惟喬親王の墓(陵)は金龍寺の隣だけでなく、筒井の地にもありました。
陵の隣には惟喬親王像が置かれていました。
山深いところで訪れる人の姿は全くありませんでした。
蛭谷の筒井神社の奥には木地師資料館があり、ここにも惟喬親王像が置かれていました。
惟喬親王は大きな茶碗を持っています。
茶碗といえば黒田官兵衛の兜は茶碗をひっくり返したような形をしていました。
http://matome.naver.jp/odai/2139711378115060501黒田官兵衛が茶碗をひっくり返したような形の兜をかぶっていたのは、茶碗が髑髏をイメージさせるものであったからではないかと私は考えています。
織田信長が浅井長政らの髑髏に漆を塗って杯にしたとか、江戸時代の漢詩人・高野 蘭亭、徳川光圀らが髑髏杯を持っていたなどといわれています。
髑髏杯とは人間の髑髏で作った杯のことです
奈良・西大寺の大茶盛では人の頭ほどもある大きな茶碗でお茶を回し飲みしますが、これも髑髏杯をイメージしているのではないでしょうか。
そういえば、大皇器地祖神社の周辺は茶畑となっていました。
惟喬親王は京都の法輪寺に籠った際、虚空蔵菩薩より漆の製法を授かったとう伝説もありますが、髑髏と漆は髑髏杯をつくるのにかかせないものであったようです。
また真言立川流では髑髏に漆を塗り重ねて髑髏本尊なるものを作っていたとされます。
惟喬親王の髑髏は髑髏杯にされたか、髑髏本尊にされたのではないでしょうか。
それで「轆轤(妖怪ろくろ首を思わせる)を発明した」とか、「虚空蔵菩薩から漆の製法を授かった」などの伝説が作られ、大きな茶碗を持つ惟喬親王像が作られたのかも?
やっぱりトンデモ説でしたか?(汗~)
出猩々という楓だと思うのですが、芽吹きが赤色で、葉が徐々に黄緑色に変化します。
もうそろそろ初夏ですね~。
金龍寺・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町809
大皇器地祖神社・・・滋賀県東近江市君ヶ畑町977
惟喬親王陵・・・滋賀県東近江市筒井峠
木地師資料館・・・東近江市蛭谷町176
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[2015/04/20 00:00]
滋賀県 |
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