紫色に燃える山を発見!!
紫色の正体はみつばつつじの群生です。
↓ 写真向かって右下には西明寺が見えています。
以前の記事、
西明寺(京都) 紅葉 『聖天さんのご利益は倍返しだ~!』 で、西明寺には聖天堂があり、『倍返しのお守り』が授与されているということをお話ししました。
聖天さんは歓喜天、大聖歓喜天ともいわれ、象頭の男女が抱き合う姿で表されます。
そして聖天さんには次のような伝説があります。
マラケイラレツ王は牛と大根が好物でした。
牛を食べつくしてしまうと死人の肉を、死人の肉を食べつくしてしまうと生きた人の肉を食べました。
人々はこれを憂い、マラケイラレツ王に対して挙兵しました。
するとマラケイラレツ王は鬼王ビナヤキャとなって飛び去ってしまいました。
その後鬼王ビナヤキャの祟りで疫病が流行りました。
そこで十一面観音がビナヤキャ女神に姿を変えて鬼王ビナヤキャの前に現れました。
鬼王ビナヤキャはビナヤキャ女神に一目ぼれし、妻になれと命じました。
ビナヤキャ女神は「仏法守護を誓うのならばあなたの妻になりましょう」と言いました。
鬼王ビナヤキャは仏法守護を誓ってビナヤキャ女神を妻としました。☆ ←こちらのサイトに歓喜天の絵が掲載されています。
足を踏みつけているのがビナヤキャ女神、踏みつけられているのが鬼王ビナヤキャです。
足を踏みつけているのはビナヤキャ女神がビナヤキャの祟る力を押さえつけていることをあらわしているのでしょう。
西明寺に聖天堂が作られたのは、空海が関係しているのではないかと思います。
西明寺は天長年間(824~834)に空海の高弟・知泉が神護寺の別院として創建したと伝わっています。
神護寺は西明寺からほど近いところにあります。
神護寺は和気氏の私寺・神願寺と高雄山寺が824年に合併してできたお寺ですが、和気氏の氏寺というよりも、
空海が開いた真言宗の寺としての性格が強い寺であったようです。
812年には空海が高尾山寺に住んでいました。(空海は佐伯氏で和気氏ではありません。)
824年、神願寺と高雄山寺の寺地を交換し、寺号を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改め、定額寺となりました。
定額寺とは官の保護を受ける私寺のことです。
寺名に『真言』とありますが、空海は真言宗の開祖です。
その後も空海の弟子が別当となっています。
804年7月、空海と天台宗の開祖・最澄はともに遣唐使として唐へ向かいました。
最澄は1年足らずで帰国しましたが、空海は最澄が帰国したのちも唐に滞在し、806年10月に帰国しました。
最澄はまだ無名だった空海に弟子入りし、密教を教わっています。
しかし忙しい最澄はしだいに経典を借りて読むだけで、空海から直接教えを乞うことが減っていきました。
813年、最澄は『理趣釈経(理趣経の解説本)』を貸してほしいと空海に頼みましたが、空海はこれを断りました。
このことによって、最澄と空海は決別したということです。
空海が最澄に理趣釈経を貸さなかった理由は、経典をよむだけで修行もせずに理趣経を理解することはできないから、といわれています。
でも本当は、空海は理趣経を自分だけのものにしたくて、最澄に教えるのが嫌だったのかも?
(空海ファンの方、すいません。)
一般的な仏教は性行為や人間の欲望に否定的ですが、理趣経はこれらを肯定しています。
男女双体のみほとけ・聖天さんに対する信仰は理趣経と関係がありそうに思えます。
聖天さんが神護寺の別院・西明寺に祀られているのは、空海が理趣経をいかに大事に思っていたかを示しているようにも思えるのです。
西明寺・・・京都市右京区梅ケ畑槇尾町2
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[2015/04/12 00:00]
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