大阪市住吉区 住吉大社
2012年5月20日 撮影
①すみよしの ゆふしでなびく 松風にすみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな/光台院親王漢字にすると「住吉の 木綿四手なびく 松風に 浦波白く 隠る卯の花」となるんでしょうか。
現代語訳は「住吉の神域に掛けられた木綿の四手をなびかせる松風が、白い波をたてて卯の花を隠しています」みたいな感じかな?
②木綿四手って何? 木綿四手(ゆうしで)とは木綿で作った四手のことです。
四手は神垂とも書き、注連縄や玉串などにつけて垂らした紙のことです。

上の写真は大阪お初天神の節分祭で行われた護摩供ですが、提灯の下あたりに注連縄がはってあって、ジグザグの形をした白い紙がひらひらしているのがわかりますか?
これが四手(紙垂)です。

正月の注連飾りにもつけられていますね。(写真は滋賀県多賀大社付近で飾られていた注連飾り)
現在、これらの四手は紙で作られていますが、古には木綿で作られており、木綿四手と呼ばれていたそうです。
このデザインがどこから来るのかについては諸説ありますが、雷光や稲妻をイメージしたものではないかといわれています。
③木綿四手なびく松風とは雷光や稲妻をともなう風?
昔は住吉大社の太鼓橋のあたりまで海だったそうです。
大和川が運んできた大量の土砂によって陸が増え、現在の海岸線は住吉大社から3km以上も離れていますが。
かつて海岸の砂浜には美しい松林が続いており、松林を抜けてくる風のことを松風と詠んだのでしょう。
そしてその松風は木綿四手をなびかせていたということです。
木綿四手は雷光や稲妻をイメージしたものではないかといわれているのでしたね。
住吉大社に吹いてくる松風はさわやかな風ではなく、雷光や稲妻をともなった不気味な風だったのではなかと想像します。
④光台院親王とは後鳥羽天皇の皇子の道助入道親王?
光台院親王とは後鳥羽天皇の皇子の道助入道親王(どうじょにゅうどうしんのう、1196年‐1249年)のことでしょうか。?
1206年に出家し、1214年に仁和寺第8代門跡となり光台院御室と称されました。

⑤波風をおこす後鳥羽院の荒れる心
後鳥羽天皇は院政を行いましたが、しだいに鎌倉幕府と対立するようになり、1221年に承久の乱がおこります。
このとき道助入道親王は父・後鳥羽院のために祈祷を行いましたが、後鳥羽院は敗れて隠岐へ流罪となりました。
道助入道親王は仁和寺門跡を廃され、高野山に隠遁しました。
隠岐に流された後鳥羽院は次のような歌を詠んでいます。
「われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け」
私こそ隠岐の島の新しい島守である。隠岐の海の荒々しい波風よ、そのことをふまえて吹くがよい、みたいな訳になりますでしょうか。
光台院親王は住吉の松風に、父・後鳥羽院がおこした隠岐の海の荒々しい波風を思いおこして「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」と詠んだのではないでしょうか?
この歌を一読したとき、松風、卯の花などの言葉から何となく穏やかな風景を思い浮かべたのですが、どうやらそれは勘違いだったようです・・・・・。

千葉県 鵜原理想郷の波
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