上賀茂神社 紀元祭 蹴鞠 『中大兄皇子の脱げた沓』 

 
 京都市北区 上賀茂神社
紀元祭・・・2月11日


 京都市東山区 泉涌寺

①上賀茂神社 紀元祭

建国記念日の2月11日、上賀茂神社では紀元祭が行われ、蹴鞠の奉納などがありました。

写真はフィルムで10年以上前に撮影したものです。

上賀茂神社 蹴鞠 

②中大兄皇子の脱げた沓

蹴鞠といえば中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の逸話を思い出しますね。
そう、蹴鞠をしていて脱げた中大兄皇子の沓を中臣鎌足が拾ってさしだした という逸話です。
これをきっかけに二人は親密な仲となり、共謀して当時の権力者・蘇我入鹿を暗殺したとされます。

天智天皇(中大兄皇子)には沓にまつわる不思議な伝説も伝えられています。

天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出しましたが、いつまでたっても戻りませんでした。
後日履いていた沓だけが見つかったので、その沓が落ちていた所を山陵にしました。(扶桑略記・平安時代末)


この伝説から天智天皇は暗殺されたなんて説もあるようですね。

談山神社 鎌足像 

談山神社 中臣鎌足像

③奈良の都は天武系天皇の都だった。


でも、私はこの伝説は天智天皇が暗殺されたということを伝えようとした伝説ではないと思います。

天智天皇は病を患って672年に崩御されました。
その後、大友皇子(天智天皇の子)vs大海人皇子(天智天皇の弟)の皇位継承をめぐる戦争がおきました。
これを壬申の乱といいます。
勝利した大海人皇子は673年に即位して天武天皇となりました。

その後、奈良時代には、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇(重祚して称徳天皇)と天武系の天皇が続きました。
奈良の都は天武系天皇の都だったのですね。

 奈良奥山ドライブウェーより大仏殿・興福寺五重塔を望む

奈良 東大寺大仏殿と興福寺五重塔


④天武系天皇の血筋絶え、天智系天皇が復活。

しかし称徳天皇は女帝で結婚が許されなかったため、子供がありませんでした。
そのため、ここで天武系の天皇の血筋はたえてしまいました。

そして称徳天皇の次には天智天皇の皇子の光仁天皇が即位しました。
光仁天皇以降はずっと天智系の天皇が続きました。

⑤財政難なのに平安京遷都したのはなぜ?

光仁天皇の皇子の桓武天皇は784年に長岡京に、794年に平安京に遷都しています。
しかし当時の朝廷はたいへんな財政難におちいっていたといわれています。
それにもかかわらずなぜ桓武天皇は長岡京、平安京と2度も遷都したのでしょうか。

京都御所 平安装束の女性たち 
京都御所 ※現在の京都御所は平安京遷都当時の御所とは場所がちがいます。


⑥平安京は天智系天皇の都

『奈良の仏教勢力から逃れるため、平安京に遷都した。』私は学校でそう習いました。
最近の歴史の教科書は『奈良の怨霊から逃れるため』と教えているようです。
たしかにそういう理由もあったかもしれません。
しかし桓武天皇は天武系の天皇の都だった平城京に住むのが嫌だったので長岡京、平安京に遷都したという側面もあるのではないでしょうか。

⑦わずか10年で長岡京から平安京に遷都した理由

ちなみにわずか10年で長岡京から平安京に遷都したのは、次のような理由からだと考えられています。

785年に長岡京造長岡宮使の藤原種継暗殺事件がおきました。
桓武天皇の同母弟の早良親王が首謀者とされ、乙訓寺に幽閉されました。

乙訓寺 牡丹 

乙訓寺(長岡京市)

早良親王はハンガーストライキを決行し、淡路へ配流となる船上で亡くなりました。

その後、桓武天皇の近親者が相次いでなくなったり、皇太子が病になるなど不幸なできごとがおきました。
そしてその原因を陰陽師に卜わせたところ、早良親王の怨霊の仕業とされました。
そういったことから、長岡京は早良親王の怨霊がすむ都と考えられたのでしょう。
そこで、長岡京を捨て、新たな都・平安京を作って遷都したと考えられています。

泉涌寺 雪2 
泉涌寺 ※泉涌寺には歴代天皇の位牌が安置されているはずなんですが・・・

⑦天皇が天武系から天智系に戻ったのは藤原氏の策略だった?

もしかして、天武系の天皇から天智系の天皇に戻ったのは、藤原氏の策略だったりしないでしょうか?

というのは、中臣鎌足(藤原鎌足)の子の藤原不比等は天智天皇の後胤であると信じられていたからです。

中臣鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらいうけていますが、 その時鏡王女はすでに天智天皇の子供である不比等を身ごもっていたと記した史料があるのです。
真偽はともあれ、藤原氏は自分たちは天智天皇の血をひいていると考えていたことでしょう。

とすれば、天皇を天智系に戻したいと考えるのは当然のことと思われます。

実際、称徳天皇の次代の天皇として天智天皇の孫にあたる光仁天皇を押したのは、中臣鎌足の孫で藤原不比等の子である藤原百川や藤原永手でした。

雲龍院 雪2 
泉涌寺 別院 雲龍院

⑧泉涌寺には天武系天皇の位牌がない。

京都の泉涌寺には38代天智天皇、49代光仁天皇から124代昭和天皇までの位牌が安置されているそうです。
天智天皇の次の39代は弘文天皇ですが、これは壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子のことです。
大友皇子が即位していたかどうかはよくわかっておらず、弘文天皇という諡号は明治3年に追贈されたものです。
弘文天皇の位牌がないのはこのためでしょう。

あと40代から48代までの天皇の位牌がありませんが、これらは全員天武系の天皇です。
つまり天武系天皇の位牌がすっぽり抜けているのです。
こういったあたりにも天皇家(天智系)や藤原氏が天武系天皇を忌み嫌っているようすがうかがえるように思います。

雲龍院 雪 

泉涌寺 別院 雲龍院


⑨「沓が脱げる」の意味

「沓が脱げる」
というのは比喩的表現で、『天智天皇の子孫が皇位を継承できなかった。』という意味なのではないでしょうか。
また、「鎌足が天智天皇に脱げた沓を差し出した。」は「藤原氏が天武系天皇を廃し、天智系天皇が皇位継承できるようにした」という意味なのではないでしょうか。
すると「天智天皇が馬にのってでかけ、いつまでも戻らなかった」というのは「天智系の天皇が皇位につかない時代(天武系の天皇の時代)が長く続いた」という意味ではないかと思えます。

ウィキペディアの中臣氏の項目に「古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。」と書いてあります。
「天智天皇の沓のあるところに陵を造った。」という伝説も比喩的表現で、「天智系天皇を擁立した藤原氏(中臣氏)の土地である山科に天智天皇の陵を造った。」という意味ではないでしょうか。

泉涌寺-陵

泉涌寺 境内にある陵


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[2017/02/14 12:00] 京都の祭 | トラックバック(-) | コメント(-)