fc2ブログ














長谷寺 宵牡丹 『禁断のきょうだい愛』 

奈良県桜井市 長谷寺

長谷寺 宵牡丹3 

①伯瀬は死の国?

以前の記事、長谷寺 紫陽花 『泊瀬は死の国?』  に衣通姫伝説について書きました。

第19代允恭天皇(376?-453)には木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)という同母兄妹があり、
二人は禁忌とされていた近親相姦に陥り、周囲にも二人の関係がばれてしまいます。
群臣たちの多くは木梨軽皇子を次期天皇に立てたいと思っていましたが、
この一件で群臣たちは木梨軽皇子・弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)を支持するようになりました。
允恭天皇崩御後、木梨軽皇子は大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとしました。
しかし大前小前宿禰が裏切ったため木梨軽皇子は捕えられ伊予へ流罪となりました。
軽大娘皇女は兄が帰ってくるのを待っていましたが、待ちきれなくなって兄に会いにいきました。
軽大娘皇女を迎えた木梨軽皇子は次のような歌を詠み、ふたりは自害して果てました。


こもりくの 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙(いぐい)を打ち 下つ瀬に 真杙(まぐい)を打ち
斎杙には 鏡をかけ 真杙には 真玉をかけ 真玉如(な)す 我が思う妹(いも)
鏡如す 我が思う妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲ばめ

(泊瀬の河の上流に斎杙を打ち、下流には真杙を打ち、斎杙には鏡をかけ、真杙には真玉をかけ、その鏡のように我が思う妹、その真玉のように我が思う妻、おまえがいるからこそ家に帰りたいと思い、国を偲ぶのだよ。) 


ここに出てくる伯瀬とは長谷寺付近の地名です。
「こもりくの」は、『伯瀬』または『志多備』にかかる枕詞ですが、『黄泉の国』のことを『志多備国』ともいいます。
黄泉の国とは死後の国のことです。
同じ「こもりくの」という枕詞を用いるところから、『伯瀬』もまた『死後の国』を意味する地名ではないかと私は推理しました。

現在でも長谷寺の奥の院あたりにはお墓がたくさんあります。
木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)の霊もここに祀られているのかもしれませんね。

長谷寺 宵牡丹2

②大津皇子 薨去。

686年、道明上人が初瀬山の西の丘に三重塔を建立し、
727年、徳道上人が東の丘に十一面観音を祀ったのが長谷寺の始まりとされます。

686年には歴史上有名な人物が二人亡くなっています。
天武天皇(?ー686年10月1日)と大津皇子(663年―686年10月25日)です。

大津皇子は天武天皇の第3皇子とされます。
大津皇子は父の天武天皇が崩御したあと、一か月もたたないうちに23歳という若さで亡くなってしまったのです。
なぜ大津皇子はそんなに若くなくなってしまったのでしょうか。

長谷寺 宵牡丹

③大津皇子、謀反を疑われ自殺。

天武天皇の兄、天智天皇には蘇我遠智娘との間に大田皇女と鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)の二人の皇女がありました。
大田皇女と鸕野讚良はともに天智天皇の弟で叔父にあたる大海人皇子(のちの天武天皇)の妻となりました。
662年に鸕野讚良は草壁皇子を産み、663年に大田皇女は大津皇子を産みました。

667年太田皇女はまだ幼い大津皇子を残して亡くなってしまいます。

671年、天智天皇が崩御すると、翌672年、皇位継承をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子vs天智天皇の皇子・大友皇子が争いました。(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して673年に即位し、鸕野讚良皇女は皇后となりました。

686年10月1日、天武天皇が崩御します。

その後、大津皇子は謀反を企てたと疑われ、686年10月25日に大津皇子は自殺してしまったのです。
大津皇子の妃の山辺皇女は殉死しています。

この事件は、草壁皇子を皇位につけるために持統天皇が仕組んだ陰謀であったという説が有力です。

草壁皇子は皇位につくことなく、689年に亡くなってしまったのですが~。
草壁皇子の死因は不明です。

長谷寺 登廊 

④抱いてほしい?

大津皇子が自殺したとき、同母姉の大来皇女はこんな歌を詠んでいます。

見まく欲(ほ)り我(わ)がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
(私が見たいと思うあなたはもういないのに、どうしてやってきたのでしょう。馬がつかれるだけなのに。) 


『見る』というのは男女関係を暗示する言葉だとされています。
もしかして『私が抱いて欲しいと思うあなたはもういないのに』という意味?
大津皇子と大来皇女は近親相姦だった?

大来皇女は661年の生まれで、673年斎王に選ばれ、泊瀬斎宮に入っています。
泊瀬斎宮の在所は不明ですが、泊瀬(初瀬)という地名からして長谷寺の近くにあったのではないでしょうか。
初瀬は大来皇女ゆかりの地だったのかもしれませんね。

そして初瀬にある長谷寺には近親相姦の兄妹・木梨軽皇子と軽大娘皇女が祀られている可能性が大です。
長谷寺の創建年は大津皇子が薨去したのと同じ686年だし、長谷寺には大来皇女と大津皇子の姉弟の霊も弔うために創建されたのかも?


檜原神社より二上山落日を望む 

↑ 大津皇子の墓のある二上山。(檜原神社より)


うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 
弟背()()が見む/大来皇女
(弟は死んであの世に行ってしまいました。現世の人間である私は明日から二上山を弟と思って見ましょう。)


※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!








関連記事

[2017/05/24 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)