皆様、連休いかがお過ごしでしたか。
私は写真を撮るのが忙しく、なかなかブログまで手が回りませんでした~。
11月21日、姫路城に行ってきました。
姫路城に行くのは初めてだったんですが
素敵な写真とゆるーい文章に味があるブロガーの
モリタさんが撮影スポットや紅葉情報を教えてくださったので
とても楽しい旅になりました。
モリタさん、ありがとうーー!!
姫路城は1346年に赤松貞範が築城して以来、約530年の間に13氏も城主が変わっています。
そして城主が変わるたびに刑部明神の幽霊が城主の前に現れて「ここは誰のものか」と聞くという怪談が伝えられています。
「あなた様のものだ」と答えるといいのですが、「オレ様のものだ」なんて答えようものなら祟りでひどい目にあったとか。
ところがこの刑部明神の正体がよくわからず、いろいろな話や説が存在しています。
①第92代伏見天皇の御代、小刑部という美しい女房が京都から播磨国に流され、姫山(姫路は慶長以前は姫山といった。)に隠棲した。
後の世の人が彼女を小刑部明神として祀った。
②小刑部明神は女神ではない。(播磨鑑)
③刑部姫は高師直の娘である。
④宮本武蔵が小刑部明神を退治した。
などなど。
写真を撮るのに忙しくてお城の中には入らなかったのですが、大天守最上階に刑部明神(長壁明神)が祀られているそうです。
また、兵庫県姫路市立町33にも長壁神社があります。
この長壁神社について、
ウィキペディアには次のように記されています。
刑部親王(光仁天皇の皇子)を主祭神に親王の王女という富姫を配祀する。
刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。
国司の角野氏がこの2人を守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた。この刑部親王が小刑部明神の正体なのでしょうか?
しかし光仁天皇(709~782)の皇子の中に刑部(おさかべ)親王という名前は見当たりません。
昔のことなので、正史に名前が残っていないということも考えられますが、藤原百川(732 ~779)の讒言によって流罪となったと考えられる光仁天皇の皇子には他戸(おさべ)親王(761?~775)がいます。
他戸親王の・母親で光仁天皇の皇后だった井上内親王(717~775)が天皇を呪ったとして后を廃されました。
他戸親王はこれに連座したとして廃太子となり、母親とともに奈良県五條市の没官の邸に幽閉され急死したのです。
この事件は山部親王(桓武天皇)を立太子させたいと考えていた藤原百川の陰謀だと考えられています。
『おさかべ親王』と『おさべ親王』は音もよく似ています。
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/tag/%E9%95%B7%E5%A3%81%E7%A5%9E%E7%A4%BE↑ こちらのブログには、出典はわかりませんが、刑部親王は池戸親王であると記されています。
また、天武天皇の皇子に忍壁皇子があり、刑部親王(?~705)とも記されます。
大宝律令選定を指揮した方です。
長壁神社の由緒によると刑部親王は藤原百川(732 ~779)の讒言によって地位を追われたとありますが
時代があいません。
姫路城・・・兵庫県姫路市本町68いつも応援ありがとうございます。
にほんブログ村
にほんブログ村