奈良県桜井市 談山神社
撮影日 2010年11月27日
塔百景32
●定慧の幽霊が塔を建てた?談山神社の十三重塔は678年に亡き父鎌足のために鎌足の二人の息子、長男・定慧(じょうえ)と次男・不比等が建立したものとされます。
(現存の十三重塔は1532年に再建されたもの)
ここで鎌足・定慧・不比等の生没年を見てみましょう。
鎌足・・・・614年~669年
定慧・・・・643年~666年
不比等・・・659年〜720年
「えっ?」と思われましたか。
そう、鎌足の長男の定慧は、鎌足より先に23歳の若さでなくなっているのです。
つまり談山神社の十三重塔は定慧の幽霊と不比等が建てたものだということになります。
653年、定慧はわずか10歳で出家して遣唐使として入唐しています。
ようやく日本に帰ってきたのは12年後の665年のことでした。
ところが、帰国後わずか3ヶ月で死亡してしまったのです。
暗殺されたという説もあります。
もちろん幽霊には塔は建てられません。
実際に十三重塔を建てたのは不比等で、兄の定慧とともに建てたということにしたのでしょう。
中臣鎌足神像●藤原不比等は天智天皇の後胤だった?鎌足の次男、藤原不比等は天智天皇の後胤であるとする説があります。
正史は不比等の母を車持与志古娘(よしこのいらつめ)としていますが、『興福寺縁起』は不比等の母を鏡王女としています。
鏡王女は始め天智天皇の妻だったのですが、のちに天智から鎌足に正妻として譲られています。
このとき、すでに鏡王女が天智の子を身籠っていた、それが不比等ではないか、というのですね。
●定慧は孝徳天皇の後胤だった?また定慧は孝徳天皇の後胤であるという説があります。
鎌足は孝徳天皇の后であった女性を妻として与えられています。
そのとき、その女性は孝徳天皇の子を身籠っていたのではないかというのです。
鎌足は自分の子ではない二人の息子を育てていたのでしょうか?
●先祖の霊は子孫が祭祀するべき私は定慧は鎌足の本当の子供だと思います。
なぜそう思うのかというと、すでに死んでいたはずの定慧が鎌足のために十三重塔を建てたとされているからです。
大物主(大神神社の御祭神)の霊を大物主の子の大田多根子が祭祀したところ、大物主の祟りが収まったという記述が記紀にあるように
日本では先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべきと考えられていました。
不比等は自分は天智天皇の後胤なので鎌足を祭祀するのにふさわしくないと考え、
すでに死亡してこの世になかった定慧と協力して十三重塔を建てたということにしたのではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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