滋賀県東近江市 永源寺
2012年11月18日 撮影
●世継観世音菩薩永源寺の御本尊・世継観世音菩薩は秘仏でおよそ四半世紀に一度のみ御開帳されます。
世継観世音菩薩には次のような伝説が伝えられています。
開山・寂室禅師が中国より留学を終えて日本へ帰国する際、海上で嵐にあいました。
禅師が祈ったところ白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐はおさまり、無事日本へ帰国することができました。
帰国した寂室禅師が永源寺に住まわれていたとき、夜毎、寺の東の峰から光明がさすのが見えました。
禅師がそこを訪ねてみると石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
「かつて海上で嵐を静めてくださった観音様に違いない」
そう考えた禅師は中国から仏師を招き、中国の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、石の上で見つけた小さな霊像を納めて御本尊としました。
のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。
●佐々木氏頼「のちに近江守護職佐々木氏頼の子、満高が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」という部分に注目してください。
佐々木氏頼は1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いた人物です。
1349年、
氏頼の子の
義信(満高の兄)が誕生しました。
ところが1368年、
義信は17歳で急死してしまいました。
このとき
満高はまだ生まれていませんでした。
そこで
氏頼は母方の甥・
京極高詮を
猶子としました。
1369年、氏頼の次男・満高が生まれました。(満高の生誕年は1365年説もあり)
1370年、
氏頼は亡くなり、
京極高詮が氏頼の跡を継ぎました。
しかし1377年、に
京極高詮は追放され、
満高が家督を継ぐことになっりました。
●32歳で世継ぎを授かるのは遅かったのか?「満高公が跡取りに恵まれず、この観音に祈願をされたところ世継を授かりました。」とありますが、満高の子の満綱は1401年に生まれているので、満高は32歳で世継を授かったということになります。
満高が生まれたのが1365年だったとしたら、世継ぎを授かったのは36歳です。
32歳や36歳で世継ぎを授かるというのは当時としては遅かったのでしょうか?
まあ、当時の平均寿命は50歳くらいだったでしょうし、結婚も早かったでしょうから10代で父親になることも珍しくはなかったでしょう。
32歳では遅かったといえるかもしれません。
●世継ぎを授かるのが遅かったのは満高ではなく氏頼では?でも、満高の父の
氏頼のほうが、
満高より世継ぎに恵まれなかったといえるのではないでしょうか。
氏頼の生誕年は1326年です。
1349年に
義信が生まれたとき、
氏頼は23歳です。
ところが
義信は1368年に17歳で急死してしまいました。
氏頼は42歳で世継ぎを亡くしてしまったのです。そして次男の
満高が生まれたのは1365年または1369年とされています。
氏頼は39歳または43歳です。
ですから、
氏頼は39歳か43歳で世継ぎに恵まれたということになります。
これは世継ぎを授かるのが遅かったといえるでしょう。
氏頼は1361年に寂室元光禅師に土地を寄進して永源寺を開いています。
そういった関係から、1368年の
義信の死後、
氏頼は永源寺の観音様に『再び自分に子供が生まれますように』と祈願したのかも?
つまり『
満高が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』のではなく『
氏頼が跡取りに恵まれず、永源寺の観音に祈願をして世継を授かった』というのが本来の物語なのではないかなあ、と思ったりします。
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