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浄瑠璃寺 紅葉 『郎党・女房をひきつれて出家した多田満仲』 


京都府木津川市 浄瑠璃寺
 2007年11月28日 撮影


浄瑠璃寺 紅葉 
塔百景30


●彼岸と此岸を隔てる池

浄瑠璃寺の境内には阿字池があり、池の東の三重塔では薬師如来を、池の西の本堂には阿弥陀如来を祀っています。
浄瑠璃寺のパンフレットに記された境内図には、池の東に『此岸』、池の西に『彼岸』と書かれてあります。
つまり池はこの世とあの世を隔てているわけです。
同パンフレットには『法隆寺金堂においても東に薬師如来、中央に釈迦三尊、西に阿弥陀如来が祀られている』と記されています。



池の向かって左(西)にある細長い建物が本堂です。

9体の阿弥陀如来を祀る寺

浄瑠璃寺は本堂に9体の阿弥陀如来を祀っているので、九体寺とも呼ばれています。
平安時代末期には『九品往生』の信仰が流行り、京都を中心に30あまりの九体阿弥陀堂が建立されました。
しかし現存する九体阿弥陀堂は浄瑠璃寺だけです。

●九品って何?

九品とは物や人の性質を3×3で分類したものです。
まず上品・中品・下品の3つに分け、さらに、上品・中品・下品をそれぞれ生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)に分類します。
すなわち、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の9つに分類されるというわけです。

「あの人、上品!」とか「下品な行いはやめなさい」などと言いますが、この上品とか下品という言葉はこの九品からきてるんですね。
(詳しくはウィキペディアをお読みください。)

そして、この九品のちがいによって、極楽往生にも9つのパターンがあるとするのが九品往生の考え方です。

●武士の始まり ただのまんじゅう


浄瑠璃寺は天元年間(978-982)に多田満仲が行基作の薬師如来を祀ったのが始まりで、1047年、義明上人により本堂が建立されたといわれています。

多田満仲は清和源氏、六孫王経基の嫡男です。
六孫王経基についてはこちらの記事に書きましたので参考になさってください。→  六孫王神社 宝永祭 『源経基が臣籍降下に不満を持った理由』  

嵐山 もみじ祭 嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛 
↑ 土蜘蛛を退治したことで有名な源頼光は多田満仲の子です。(嵯峨狂言 頼光と土蜘蛛/青い着物が頼光)

多田満仲は都の武官貴族で、藤原摂関家に仕えて鎮守府将軍となった人物です。
多田盆地(兵庫県川西市多田)を開拓し、また武士団を形成しました。
江戸時代には「武士の始まり ただのまんじゅう(多田 満仲)」といろはカルタに詠まれています。

満願寺  
↑ 満仲が帰依し、多田源氏から厚く信仰された満願寺(兵庫県川西市)


●郎党・女房をひきつれて出家した多田満仲

987年、多田満仲は郎党16人、女房30余人と共に出家して満慶と称しました。
多田 満仲の出家について、藤原実資は『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記しています。
また『今昔物語集』には延暦寺の僧となっていた満仲の末子・源賢でが父の殺生を悲しみ、天台座主院源とともに仏法を満仲に説き出家させたという話が記されています。
多田満仲は武士としてたくさんの人を殺生したので、このままでは極楽浄土へ行けない、と心配になり出家したのかもしれませんね。

多田満仲は郎党16人、女房30余人をひきつれて出家しています。
47人以上もの人が一斉に出家したわけですね。
これだけの人数の人がいれば、いろんな人がいたことでしょう。
人の性質は上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生の9つに分けられるといいますが、47人以上もいれば、このすべてに該当する人がいたと思われます。
そういうわけで浄瑠璃寺には九体の阿弥陀如来像が安置されたのかもしれませんね。
 


毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/11/15 00:00] 京都府 | トラックバック(-) | コメント(-)