兵庫県丹波市・・・石龕寺
2014年11月9日 撮影
石龕寺の奥の院を参拝しようとして、たいへんな目にあいました!(自分が悪いんですが~)
奥の院に行く道は2つあったんですが、夕方だったので、ひとつはもう門がしまっていました。
それでもうひとつの道を歩いていったんですが、これが結構な山道で
ものすごく細い道とか崖になってるところがあるんですよ。
まさかこんな道だとは思わなかったー。
とりあえず奥の院を参拝することはできたんですが、もう暗くなりかけていたので写真も撮らずに引き返しました。
山道を下っているうちにあたりは真っ暗に!
懐中電灯で足元を照らしながらなんとか下山することができましたが、すごく怖かったです!
●各地に残る「聖徳太子が毘沙門天を刻んだ」という伝説石龕寺には次のような創建説話が伝えられています。
5 87年、廃仏派・物部守屋vs崇仏派・蘇我馬子の戦いがありました。
その際、聖徳太子は蘇我馬子側につき、自ら刻んだ毘沙門天を兜の真甲にいただいて戦い勝利を収めました。
ところがこの毘沙門天像が空中に飛散してしまったため聖徳太子は諸国を回って探しました。
毘沙門天はこの地の石窟の中におられるのがみつかったので、聖徳太子はここに小堂をたてました。
これが石龕寺の始まりです。聖徳太子が毘沙門天を刻み、毘沙門天の加護を得て587年の戦いに勝利したという話は各地の寺の創建説話にあるようです。
奈良県生駒郡にある朝護孫子寺も毘沙門天を本尊としていますが、この毘沙門天像も聖徳太子が刻んだものとも伝えられています。
朝護孫子寺●毘沙門天は鉱山の神だった。毘沙門天はもともとはインドの神クベーラで、夜叉を使役して貴金属や宝石を採掘させる神でした。
クベーラは鉱山の神だといっていいでしょう。
そして石龕寺から里山林遊歩道を歩くと岩屋城跡に出ますが(もちろん、行くことができませんでした~)
そこからさらに尾根道を歩いていくと旧金屋鉱山があります。
この地には鉱山があったため毘沙門天を祀っているのでしょう。
朝護孫子寺に鉱山があったかどうかはわかりませんが。
東大寺大仏殿 多聞天(毘沙門天は四天王の一としては多聞天と呼ばれます。)●ムカデは毘沙門天の使い戦国武将たちはこの毘沙門天を厚く信仰していました。
武田信玄も毘沙門天を信仰しており、彼の精鋭部隊は百足衆と呼ばれていました。
百足は毘沙門天の使いとされていました。
また坑道のことをムカデ穴ともいい、鉱山と毘沙門天と百足には密接な関係があったのです。
朝護孫子寺の額朝護孫子寺の額や欄間のレリーフにはムカデが刻まれていました。
↑ こちらは鞍馬寺に展示されていたムカデを描いた茶碗です。
すごくかわいいー♪(変?)こんなのほしいです。
鞍馬寺も毘沙門天を祀っています。
ただし、鞍馬寺が鉱山だったかどうかはわかりません。
近くに二ノ瀬という地名があり、二ノ瀬は丹の瀬かつては丹が採れたのではないかと考えたりもしますが。
鞍馬寺●戦国時代は鉱山争奪戦だった。なぜ戦国武将たちが毘沙門天を信仰していたのかというと、戦国時代は鉱山争奪戦であったからだとも言われています。
岩屋城は和田日向守斉頼(ときより)が1516年に築城した城ですが、1579年に明智光秀に攻められて落城しました。
その後、1586年に佐野下総守栄有が再築城しましたが、1596年豊臣秀吉の命によって城は取り壊されました。
和田日向守斉頼や佐野下総守栄有は石龕寺の毘沙門天を深く信仰していたことでしょう。
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