滋賀県東近江市 百済寺(ひゃくさいじ)
2008年11月16日 撮影
●依智秦氏の氏寺百済寺には次のような創建説話が伝わっています。
606年、聖徳太子はに慧慈とともに湖東を訪れた際、東の山中に瑞光を発見しました。
山中に入ってみると上半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木が立っており、猿が木の実をお供えしていました。
慧慈は聖徳太子に「百済・龍雲寺の十一面観音はこの伐られた上半分の木を用いて作られたものである」と言いました。
太子はこの根の付いたままの木に十一面観音を刻みました。百済寺のhpには次のようにも記されています。
『その中心は依智(エチ)秦公で一族の氏寺としてひときわ高い山中に百済寺が建立されました。』
百済寺は依智秦氏一族の氏寺だというのです。
依智秦氏(えちはたうじ)は渡来人・秦氏の傍系氏族だと考えられています。
●秦氏は百済人?新羅人?『日本書紀』(283年)には、「秦氏の祖・弓月君が百済より大勢の人々を率いて日本に帰化した。」と記されています。
この記事を読むと、依智秦氏の氏寺が百済寺というのはもっともだと思われます。
百済寺の十一面観音が百済の龍雲寺の十一面観音と同じ木を用いて刻まれているという伝説も、ああなるほど、と思います。
ところが!
秦氏の居住地から発掘される瓦は『新羅系』がほとんどなんですよ。
そういうわけで、秦氏が百済からやってきたというのは疑問視されています。
新羅は日本と敵対していたため、秦氏は百済からやってきたと偽り、自分たちの氏寺にも百済という名前を付けたのでしょうか?
●秦氏の故郷は弓月王国?またかつて中央アジアに弓月王国というキリスト教国があり、秦氏はこの弓月王国からやってきたという説もあります。
秦氏はキリスト教徒だったのかも?
広隆寺
京都の広隆寺は秦氏の氏寺で。かつては太秦寺とも呼ばれていました。
太秦から「、」を除いた大秦はローマの漢語訳、大秦寺は景教(ネストリウス派キリスト教)の教会の漢語訳です。
飛鳥昭夫さんは太秦(ウズマサ)はアラム語の『イシュ・メシャ(イエス・キリスト)』からくるのではないかとおっしゃっています。
アラム語は紀元前500年~600年頃にシリア地方、メソポタミアでに用いられていたヘブライ語と同系統の言語です。
●秦氏が信仰する弥勒菩薩とはイエス・キリストだった?百済寺には白鳳時代の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像があるそうですが、新羅から秦氏の氏寺・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にそっくりな金銅製弥勒菩薩半跏思惟像
☆が発見されています。
この広隆寺や新羅の弥勒菩薩半跏思惟像の手の印はネストリウス派キリスト教徒の印と同じであると指摘されています。
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弥勒菩薩とは東洋版・イエスキリストなのではないでしょうか?
●キリストは太陽神だった?キリスト教のクリスマスはミトラ教の冬至祭を取り入れたものだと言われています。
ミトラ教とは古代ローマの太陽神ミトラスに対する信仰のことです。
地球の歳差運動(コマが振れるように地球の自転軸が揺れる現象のこと)の関係で、かつて北半球でも空の低い場所に南十字星が見えていたそうです。
動画お借りしました。動画主さん、ありがとうございます!
そして冬至の太陽の南中高度は南十字星が出るあたりにまで低くなります。
そういう状態が3日間続いたのち、太陽は再び南中高度をあげていきます。

そこで、次のような説があります。
キリストが十字架にかけられたというのは、太陽の南中高度が南十字星の位置にくることをあらわしており
キリストが死後3日後に復活するのは、冬至から3日後の再び太陽が南中高度をあげていくことを比喩したものではないかと。
冬至は12月22日ごろです。そして太陽が再び南中高度をあげていくのが3日後の12月25日、クリスマス(キリストの誕生日)です。
●ミスラ神・ミトラス神・弥勒菩薩(マイトレーヤ)弥勒菩薩はサンスクリット語でマイトレーヤといいますが、マイトレーヤは古代インド・イランで信仰されていた太陽神・ミスラがルーツだといわれています。
そして、このミトラ教は古代インド・イランのミスラ神の信仰の影響を受けたものです。
ということは、
ミスラ神=ミトラス神・・・太陽神
ミスラ神=弥勒菩薩・・・太陽神
ミトラス神=イエスキリスト・・・太陽神
∴イエスキリスト=弥勒菩薩・・・太陽神?百済寺の金銅製弥勒菩薩半跏思惟像をぜひ拝観してみたいです。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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