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飛火野 夕景 『飛火野とのろし』※追記あり 


奈良市春日野町 飛火野
2009年10月11日 撮影


飛火野 鹿 
●冬毛の鹿

春日大社の西に飛火野と呼ばれる草原があり、鹿が群れ遊ぶ姿が見られます。
もうすっかり冬毛にかわり、角も切られていました。
(10月初めごろ、鹿の角切と呼ばれる行事で鹿の角が切られます。放っておいても自然に取れるそうです。)

ちなみに下の写真は夏毛の鹿です。

大仏殿 鹿のカップル 
●烽火をあげた野?

奈良時代ここで烽(とぶひ)を上げたところから飛火野と呼ばれるようになったといわれています。

烽とは烽火(のろし)のことです。
通信が発達していなかった古代において、烽はスピーディな伝達手段として用いられていたのですね。

烽火の記録

663年、河内国高安に烽火台が設置されています。
710年の平城遷都に伴い、712年には河内国高安烽は廃止となり、高見烽および春日烽が置かれています。

740年の藤原広嗣の乱では、藤原広嗣が軍を招集するために九州で烽火をあげています。

高見烽は生駒山に設けられました。
そして春日烽があったのが飛火野だといわれています。

●のろしを狼煙と書く理由

のろしは烽火のほか、狼煙とも書きます。
狼煙をあげる際には、まず燃えやすい藁を敷き、その上に杉の生葉を厚く重ねます。
杉の生葉は煙を大量に発生させます。
そしてそのうえに狼の糞を置き、下の藁の部分に点火したそうです。

のろしを狼煙と書くのはそのためだったんですね。

狼の糞を用いるのは、狼の糞を用いると煙がまっすぐあがったからだといいます。
肉食の狼の排泄物には動物性たんぱく質の残滓がふくまれているなどともいいます。
本当かな?

※追記
上で説明した狼煙は戦国時代の狼煙のようです。
奈良時代の烽は40里(約22km)ごとに置き、昼は煙をあげ、夜は火を燃やしたそうです。
烽は乾燥させた葦を芯にして乾草で節をしばり、周囲に松明を挟んでいたのだとか。
うーん、ちょっとイメージできない(汗)
煙をあげるときにはヨモギ、わら、生柴をまぜていたとありますから
「乾草で節をしばり、周囲に松明を挟む」というのは夜に用いた烽のことでしょうか?


●狼煙は緑の山をバックにすると映える?

平城京は奈良時代に天皇が住まわれていた場所なので、ここから高見烽や春日烽が見える必要があったと思います。
平城京跡から生駒山はよく見えるので、生駒にあったという高見烽は烽火を設置するのに最適な場所だったと思われます。
でも、飛火野は低い土地にあるので、こんなところで烽火をあげても、平城京から見えなかったのではないか。
春日烽があったのは飛火野ではないのでは。そう私は考えていました。

でも、↓ この動画を見て、考えが変わりました。



ユーチューブのにいがた狼煙プロジェクトの動画をお借りしました。動画主さん、ありがとうございます。

のろしを烽火と書くと、火がぼうぼうと燃えるイメージですが、実際には護摩のようにもくもくと煙が立ち上るんですね。

動画の1:24くらいのところで「松竹山」と文字が出、山の中腹に白い煙が立ち上っているのが山の緑にはえてくっきりと見えます。
さらに1:34くらいのところで三根山藩庁の文字が出ます。
かなり低いところで狼煙をたいているようですが、煙はかなりの高さにまで昇っています。
2:04くらいのところで天神山の文字が出ます。
天神山の狼煙はかなり山の高いところであげられていて、曇り空の精か、煙がわかりにくいように思えます。
狼煙は背景に山があるほうがくっきりと見え、ぎゃくに山頂などで背景が空だとわかりづらいのかもしれません。

●飛火野であげた烽は平城京から見えた?


平城京跡下記地図西に平城宮跡とありますが、その周囲の緑色の部分が平城京跡です。
東のほうに東大寺二月堂の文字があり、さらに東に若草山があります。
若草山の南には春日大社がありますが、この春日大社のやや西に飛火野はあります。



平城京跡・若草山・飛火野の位置関係を抑えた上で、下の写真を見てほしいのですが

若草山山焼き 平城京より 
平城京跡から若草山山焼きを望んだ写真です。
手前に写っている建物は朱雀門で、平城京跡の南にあります。

上の地図と照らし合わせてみると、若草山の真下あたりに東大寺二月堂がくると思います。
飛火野は東大寺二月堂の南、ちょうど朱雀門の裏側あたりでしょうか。

上の写真は夜撮影したので山の稜線がわかりにくいので、動画をお借りしました。動画主さん、ありがとうございます。



上の動画を見るとわかるように、若草山の南側(動画向かって右)もずっと山が続いています。
なので、飛火野で烽火をあげたとすれば、平城京から山の緑を背景としてくっきり見えたことでしょう。

●夜間、飛火野の烽は平城京から見えたか?

問題は夜です。夜は煙が見えにくかったことでしょう。
そのため、夜間には煙ではなく、火をあげていたようです。

飛火野で夜火をあげたとして、その炎はどのくらいまであがったでしょうか?
果たして平城京から炎は見えたでしょうか?

●本当に飛火野で烽(とぶひ)をあげていたか?

奈良時代、ここで烽(とぶひ)をあげたところから、飛火野と呼ばれるようになったといわれていますが、
本当に飛火野で烽をあげていたのでしょうか?
私はやっぱり飛火野では烽をあげてはいなかったと思います。

烽を上げる目的は先にも書いたとおり、スピーディな伝達でした。
スピーディな伝達のためには他の場所に設けられた烽を見ることができ、すみやかに烽をあげることができなければなりません。
ですが、飛火野は低い土地にあるので、見晴らしがよくないのです。
高見烽があったという生駒山もここからは見えません。

もしかしたら生い茂った木を伐採するか、高い建物をつくれば見えるかもしれませんが。

かつては春日山・高円山などを含む広い地域を春日と言っていたそうです。
ヒ大倭国春日烽は現在の飛火野ではなく、春日山・御蓋山・高円山などに置かれていたのではないでしょうか。

●飛火野は葬送の地だった?

烽が置かれていなかったのであれば、飛火野という地名の由来は何なのでしょうか。

『野』とは葬送の地を意味しているのではないかとする説があります。
そういわれてみれば京都の葬送の地は鳥辺野、蓮台野、化野などのように『野』」が用いられています。
高野山が、野原ではないにもかかわらず『高野』と呼ばれるのは、葬送の地であったからだと聞いたこともあります。
そういえば高野山の奥の院にはおびただしい数の墓がありますね。

そして飛火野にはちょっとわかりにくいのですが、15基もの古墳があり、春日野古墓と呼ばれています。
飛火野は葬送の地だったのです。
飛火野とは火が飛ぶ野、人魂が飛ぶ野という意味だったりして~。




毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/11/03 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)