兵庫県加古川市志方町広尾1029 円照寺
塀から零れ落ちそうなのうぜんかづらの道
塀の向こう側に見えているのは花の寺・円照寺

珍しいピンク色の彼岸花
1441年に創建されたお寺で、1998年に100m北から現在地に移転したとのこと。
1441年は嘉吉の乱(かきつのらん)があった年ですね。
室町幕府第4代将軍足利義持は息子・足利義量が20歳で亡くなってしまったため、将軍代行を務めていました。
1428年に義持は亡くなりました。
室町幕府では後継者争いを避けるため、嫡男以外の男子は全員出家んするしきたりとなっていました。
しかし嫡男が亡くなっていたため後継者がおらず、義持の4人の息子からくじびきで将軍を決めることにしました。
その結果、比叡山の義円(義教)が還俗して6代将軍に就任しました。
義教は『クジ引き将軍』とからかわれるのが悔しかったのか、守護大名の権力をそぎ、将軍の権力強化を目指します。
義教は守護大名の中でも特に権力があった三管領、斯波家・畠山家や、四職である京極家・山名家の後継者決めに介入。
1439年に起こった永享の乱で将軍の命令を無視していた鎌倉公方の足利持氏を自害に追い込み、鎌倉府を廃止しました。
そのほかにも守護大名を取り潰し、公家の領地(荘園)没収・暗殺、延暦寺を従属させるなどして、万人恐怖と呼ばれるようになります。
義教は播磨(兵庫県)・備前・美作(岡山県)などを治めている守護大名で四職の一つ・赤松家の領地の播磨国を没収し、従兄弟に与えようとしました。
また赤松満祐の弟の領土が没収されたり、同じく四職であった一色家や有力守護大名の一つであった土岐家の当主が暗されるなどの事件がおこりました。
このようなことがああって満祐は将軍暗殺を決意します。
1441年、赤松家はこの頃関東で起きていた結城合戦の勝利のお祝いの宴会で、義教を自宅に招きました。
そして赤松家の家臣たちが宴会に乱入し、義教を斬り殺したのです。
しかし赤松家は山名家を中心とする幕府軍によって攻められ、満祐は自害しました。
赤松家の領地は山名家に与えられ、山名家が治めている領地は8ヶ国となって権力を増大させていきます。
義教の弟・義持の息子は他に3人いたが、彼らは義教によって殺されたり自害に追い込まれていました。
そこで幕府はやむなく義教の息子である足利義勝を9歳で将軍職につけましたが2年後に病死、義勝の弟・義政が8歳で第8代将軍となります。
政治の実権は山名家や畠山家などの管領たちによって行われるようになりました。
管領は義教が没収した守護大名の領地を再び与え、これ以降守護大名の権力が増大し、幕府の権力が弱まっていきます。
山名家と細川家が権力をつけ、二大守護大名の時代となっていきます。
赤松家は衰退しましたが、1443年に三種の神器が奪われる事件が起きた際に赤松家の家臣たちが活躍して手柄をあげ、加賀国の守護となっています。
兵庫県加古川市志方町高畑544の円福寺は赤松は赤松満祐が1397年に創建したと伝わりますので
同じ志方町にあって嘉吉の乱がおこった1441年に創建された円照寺も赤松氏や赤松満祐と関係のあるお寺なのかも?
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