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来迎寺 本尊掛松 桜 『幽霊と融通念仏宗』 


大阪府守口市 来迎寺
大阪府枚方市 本尊掛松


佐太天満宮 

佐太天神宮

佐太天神宮の向かいに来迎寺はあります。

来迎寺

来迎寺

①天筆如来と本尊掛松


来迎寺は現在は浄土宗ですが、もともとは融通念仏宗・佐太派の本山でした。

859年、奈良大安寺の行教上人は九州の宇佐八幡宮に国家安泰を祈願されました。
その満願の日、行教上人の袈裟の上にみほとけが姿をあらわしたといいます。
このみほとけのお姿を写したものを「天筆如来」といい、石清水八幡宮のご神体とされました。

1342年4月15日の夜、石清水八幡宮の宮司と深江の法明上人(融通念仏宗の中興)に夢告げがありました。
それは石清水八幡宮のご神体である「天筆如来」を法明上人に授けるというお告げでした。
石清水八幡宮の宮司と法明上人は、現在の枚方市茄子作一本松で会い、宮司は法明上人に天筆如来を授けました。
現在、この場所は「本尊掛松」と呼ばれる史跡となっています。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(桜に気をとられすぎて、松が写っておりませんが~汗)

 法明上人は、弟子の実尊上人に「天筆如来」を授けました。
実尊上人は、1347年にこの天筆如来をご本尊として紫雲山来迎寺を創建されました。

②来迎寺が移転を繰り返した理由

当初は守口市来迎町にありましたが、二十六回も移転を繰り返して現在地に至っています。

なぜ来迎寺は二十六回も移転を繰り返したのでしょうか?

来迎寺のhpには「来迎寺独特の相続法により」と書いてあります。
来迎寺独特の相続法とはどのようなものなんでしょうか?

守口市史編纂委員会は調査結果より次のように説明しています。

⑴2世の時代以降に北朝方の足利義満から圧力を受けて創建当初の堂宇を維持できなくなった。
⑵住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めていたため、代替わり毎に相続者の居村に移転した。
⑶同村の者が相続した場合は移転していない。

来迎寺3

来迎寺

③幽霊の足跡

この寺には幽霊の足跡と呼ばれる足形が伝えられています。

1743年7月14日、35世慈天上人の前女の幽霊が現れてこう言いました。
「私は江戸にで天筆如来さまのご縁にあいました小網町の大工の妻お石と申します。
臨終の際、主人が葬いもしてくれませんでしたので、成仏できずに迷っています。どうかご回向をして下さい。」
慈天上人は幽霊に「心光清蓮」という法名を授け、座具を敷き幽霊をその上にたたせて念仏回向しました。
すると幽霊は「迷いはさめ、仏さまのもとへ参れます。」といい足跡を残して姿を消しました。


えーっ、幽霊なのに足跡?
幽霊って足なかったんじゃないの?

以前、大阪市平野区の大念仏寺にある幽霊博物館で、幽霊の絵を見たことがあります。
もう随分昔のことなので、ほとんど忘れてしまいましたが、その図録が手元にあります。

大念仏寺 練り供養 
大念仏寺

平知盛亡霊図、菅公怨霊図、仙台高尾亡霊図などなど。
写真が小さくて確認できない絵もありますが、明確に足が描かれているものはないです。
幽霊の足がなくなったのは、円山応挙(1733~1795年)が足のない幽霊を描いて以降、と言われます。

来迎寺に幽霊が現れたのは1743年で、このとき円山応挙はまだ10歳。
1743年にはまだ足のない幽霊が登場していなかったのかも?

地獄絵に描かれた亡者には足は描かれていますけどね。

西福寺 地獄絵 
西福寺 地獄絵


それはともかく、私が気になるのは、融通念仏宗の寺に幽霊の絵が残されているということです。

幽霊の足跡がある来迎寺は現在は浄土宗ですが、もともとは融通念仏宗。
幽霊博物館がある大念仏寺は融通念仏宗の総本山です。

融通念仏宗は幽霊と関係が深い宗派だったりして?

来迎寺5 
来迎寺4

来迎寺2


来迎寺  
来迎寺(4枚とも)



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[2020/03/25 18:21] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

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