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常称寺(大阪府 枚方市)雪 

大阪府枚方市 常称寺

常称寺 門

①親鸞と結婚した九条兼実の娘・玉日 

雪の降る常称寺。
近所の方にうかがったところ、このあたりで雪が積もるなんてことはめったにないということでした。

浄土真宗のお寺だとかで、浄土真宗の開祖・親鸞の像が置いてありました。

※門前の石碑には「存覚上人~」とありますが、像は親鸞だと思います。
守口市の存覚上人旧跡・光明寺にも同様の像があり、親鸞聖人像とされているようなので。
https://moriguchi.club/zonkaku-shounin-koumyouji/

常称寺 親鸞像 

親鸞さん、雪をかぶって寒そうですね~。

親鸞さんといえば僧侶として初めて妻帯したことで有名ですね。

こんな話がありますよ。

九条兼実「女人を絶った僧が唱える念仏と、俗にまみれた私が唱える念仏は功徳が違うのではないでしょうか。」

法然「出家の称える念仏も弥陀回向。在家の称える念仏も弥陀回向。回向の念仏に変わりはありません。
阿弥陀様の本願は、悪人・女人です。
私も愚かな法然として念仏を称えています」

九条兼実「後の世の人々が私のように迷わないように、法然様のお弟子さんと私の娘を結婚させていただけないでしょうか。」

法然「綽空(親鸞のこと)、九条兼実公の婿となられよ。そして在家の人々の先達になれ」

そういったいきさつがあり、1203年10月5日に31歳の親鸞は兼実の末娘・玉日18歳と結婚しました。

京都市伏見区深草直違橋の西岸寺はかつて藤原忠通(1097~1164)が建立した法性寺小御堂があり
1207年親鸞が越後に流罪となってから、玉日がここに住み、ここで没したと伝わり、墓が建てられているということです。

茨城県結城市にも「玉日姫の墓」があるようです。
越後へ流された親鸞をおって玉日は侍女・白川局とともに結城にやってきて、親鸞の教えを広め、1254年にこの地で没したと伝えられています。

常称寺 本堂


②恵信尼と玉日は別人だった?


親鸞の妻に恵信尼がいます。
かつては恵信尼と玉日は同一人物だと考えられていたこともあったそうです。

しかし1921年に恵信尼が娘・覚信尼(かくしんに)に宛てた手紙等(恵信尼文書が発見されました。
その内容から恵信尼は三善為則(みよしためのり)の娘であると判明しました。

玉日は九条兼実の娘だと言い伝えられていたので、恵信尼と玉日は別人ではないかとか、玉日は伝説上の人物ではないかなどといわれるようになったようです。

③玉日の墓の発掘調査

2012年京都市伏見区の西岸寺の玉日の墓を発掘調査したところ、人骨と骨つぼが発見されました。
人骨は火葬されているため埋葬年代や性別の判断ができないということです
この墓は1852年に九条家が御廟所を改葬したという記録があり、骨つぼの製作時期と一致しているとのこと。

うーん、これは玉日の実在を裏付ける根拠としては決定打とはいいがたいような~?

④「親鸞聖人伝絵」「正明伝」の食い違い

「親鸞聖人伝絵」では、流罪を許された親鸞は法然が亡くなったことを聞き、京に帰る理由がなくなったとして関東に向かったとしているそうです。

ところが高田派の「正明伝」では、流罪を許された親鸞が法然上人の墓と玉日姫の墓に参った様子が記されているとのこと。

親鸞は4男3女をもうけています。

範意〈印信〉/玉日の子?(本願寺系図別本による)―娘‐―源伊(範意の孫)
小黒女房
善鸞/玉日の子?(本願寺系図別本による)
明信〈栗沢信蓮房〉
有房〈益方大夫入道〉
高野禅尼
覚信尼ー覚惠(覚信尼の子)ー覚如(覚恵の子)ー存覚・従覚
ー唯善(覚信尼の子、覚恵の異父弟)


覚如は父・覚恵の異父弟・唯善、玉日の子・範意の娘の子源伊との間で相続争いをしていたと言われます。
そのため、「親鸞聖人伝絵」は、玉日姫の墓参りをわざと省いたのではないかとする説があります。

一方、山田文昭は「正明伝」は偽作だとしています。
その根拠は「正明伝」に突然怪奇談が五つも表れるからということのようです。

梅原猛氏は、怪奇談は当時の怨霊信仰から考えて、怪綺談が登場するのは当然であるとして、「正明伝」は偽作ではないとされました。

また、親鸞が善鸞に充てた手紙に「継母に言い惑わされたると書かれた事、殊にあさましきことなり」と書いていることから
恵心尼は親鸞の2番目の妻であるとする説もあるようです。

本願寺系図の別本には、「印信(範意)」並び「善鸞」は「母月輪関白兼実公女」とあるということです。

親鸞は、流罪となる前に九条兼実公の娘・玉日との間に「印信(範意)」「善鸞」の二男子をもうけ、
流罪後に三善為則の娘、恵信尼公との間に四人の子をもうけたのではないかというのです。
新潟にはこの四名の子らの名前「栗沢」「益方」「高野」「小黒」の地名が存在しているそうです。

玉日は親鸞流罪の約2年のちに京で亡くなってしまったので、越後之介三善為則の娘恵信尼公が玉日姫に代わってり越後へおもむき親鸞の世話をしたのではないかとしています。(当時遠流には妻をともなう習わしでした。)

⑤玉日は室町時代になって初めて史料に登場する。


今井 雅晴 さんは「親鸞の妻 玉日は実在したのか?―父とされる関白九条兼実研究を軸に (歴史を知り、親鸞を知る) 」という本の中で次のようなことを述べておられるそうです。

⑴玉日が史料に登場するのは、室町時代の『親鸞聖人御因縁』『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』
⑵九条兼実の娘は任子のみとされる。
⑶玉日が兼実の娘であったとすれば、兼実は天皇の后とするため画策したはずである。
⑷玉日は実在しない架空の人物ではないか。

そのほかにも玉日を実在の人物ではないとする説の論拠として、次のようなものがあります。

⑸九条兼実の日記「玉葉」に玉日のことは書かれていない。

⑥玉日実在説、玉日虚構説まとめ

たぶん(曖昧ですいません。実際に本を読んだだけでなく、ネットでぐぐった知識だけで語っているので)
玉日実在説、玉日虚構説は下のようにまとめられるのかなと思います。

玉日実在説玉日虚構説
玉日の記録がないのは、僧侶の妻帯が憚られたため玉日が史料に登場するのは、室町時代
九条兼実の日記にも玉日のことは記されていない。

さて、どちらが正しいのか?

後の時代に、当時の権力者・九条兼実と親鸞を結び付けて玉日の物語が創作されたような気もしますが
もっとつっこんで考えないと、これだけでは結論だせないなあ、と思いました。

玉日が実在したと考えると、兼実は玉日が生まれたときから親鸞の妻にしようと考えてはいなかったと思われます。
兼実は日記に玉日のことを記したが、のちになって兼実もしくは別の人によってその部分が削除されたと考えるのが妥当だと思います。

不自然に日記の記述が削除された跡などはあるのかどうか、というのが気になります。

さんはどうお考えになりますか?




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