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達磨寺 梅 『達磨と物部守屋は同一視された?&達磨はなぜ起き上がり小法師なの?』 

 
奈良県王子町 達磨町
2013年3月22日 撮影


達磨寺 梅2 

①片岡の乞食

達磨寺についてメインで語るのは初めてですが、過去記事の中で何度か書いていますよ。
http://kntryk.blog.fc2.com/?q=%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%AF%BA&charset=utf-8

法起寺 青空 /法輪寺 夕景 /法隆寺 花火 『人木の墓』  
↑ 上の記事では『日本霊異記』の『聖徳太子が不思議な事を示しなさった話』について書きました。

この『聖徳太子が不思議なことを示しなさった話』は『日本書記』の記述を元ネタに記されたものだと思います。

『日本書紀』にある話は次のようなものです。 (日本霊異記とほとんど同じ~)

推古天皇21年12月庚午朔(613年)、聖徳太子が片岡山を訪れると、飢えた人が道に臥していました。
姓名を問うても答えません。
太子は老人に飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人にかけてやり、こんな歌を詠みました。

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

片岡山で、食物がなく、餓えて倒れている、その旅人よ可哀相に。親がなく生まれたわけではないだろうに。
ご主人様もいないのか。食い物もなく、餓えて倒れている、その旅人よ可哀相に。

※「しなてる」は「片」にかかる枕詞。
 「さす竹の 」は「君」にかかる枕詞。勢いよく伸びる竹のような。

翌日、太子は使者に旅人を見に行かせたところ、すでに旅人は死んでいた。
太子は悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を封じた。
数日後、太子は「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。
使者が棺を開いてみると屍も骨もなく、棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました。
太子は、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。
人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語りました。

達磨寺境内の奥には3つの古墳(達磨寺1号墳、達磨寺2号墳、達磨寺3号墳)があります。
達磨寺1号墳は雪丸塚と呼ばれています。
達磨寺3号墳の上に本堂が建っています。

つまり、達磨寺3号墳は片岡の乞食=達磨てあるという信仰があったのだと思われます。

達磨寺  
達磨寺1号墳だと思う。(間違ってたらごめん)


達磨寺 古墳 
達磨寺2号墳だと思う。(間違ってたらごめん)








 



②守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられている。

法起寺 青空 /法輪寺 夕景 /法隆寺 花火 『人木の墓』  

上の記事で私はこんなことを書きました。着物を共用することで、聖徳太子と老人は同一人物であるということを示しているようにも思えると。

しかし、老人は聖徳太子のライバル・物部守屋ではないかと思ったりもします。

587年、崇仏派の蘇我氏vs廃仏派の物部氏の戦いがあり、聖徳太子は蘇我氏側に参戦していました。
結果、守屋は榎木の木の上で指揮を執っていたところ弓で射られて死に、蘇我氏が勝利しました。

下図に示したように守屋と聖徳太子は陰陽に描き分けられています。

聖徳太子物部守屋
少年大人
崇仏派廃仏派
弓で射られたが椋の木に隠れて難を逃れた。榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ。

③物部守屋は耳が悪かった?

そして聖徳太子は10人が言うことを一度に聞いて聞き分けられるほど耳がよかったという伝説がありますね。
聖徳太子と物部守屋が陰陽に描き分けられているとすれば、物部守屋は耳が悪かったということになります。

達磨寺 雪丸像 
雪丸像(聖徳太子の愛犬と伝わる。)

④えべさんは耳が悪い。

耳が悪いといえばえべっさん〈恵比寿)ですね。
そのため、神殿の裏をたたいてお参りする習慣がありますよ。

京都ゑびす神社 十日戎 


⑤榎木大明神は物部守屋?

堀川戎神社には榎木稲荷神社がありますが、榎木大明神とは榎木の木の上にいるところを弓で射られて死んだ物部守屋ではないでしょうか?

榎木稲荷神社 

榎木稲荷神社

榎木稲荷神社はもともとは天満堀川の堀止めの横(元大阪市水道局の辺り)にあった榎の大木の下にあり、句句廼知神が祀られていたそうです。
1839年に堀川戎神社末社の稲生(いなり)神社の別魂(宇賀御魂神)を合祀して、稲生神社別魂榎木神社となったそうです。

つまり、もともと榎木稲荷神社は堀川戎神社にあったわけではないのですが
人々の心に、榎木大明神とえべっさん(恵比寿)は同一神という認識があったので、堀川戎神社境内に遷宮されたのかもしれません。

達磨寺 洞窟?

達磨寺の境内に地下で法隆寺とつながると伝えられる洞窟があるときいたんだけど、これかな?

⑥野槌はえべっさん(蛭子)=守屋を妖怪化したもの?

えべっさんは耳が悪いだけでなく、足も悪いとされています。

両親のイザナギ・イザナミは3歳になっても足のたたない蛭(ヒル)のような子だとして、蛭子(恵比寿)を葦舟に載せて流しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)#/media/ファイル:Leech_in_water.jpg

蛭は小さな目と口はあるのですが、手足も耳もなく、ミミズのような体の構造をしています。
野槌という妖怪がいますが、これはヒルをモデルにした妖怪だと思います。
蛇ににているが、頭部に口がある以外は目も鼻もなく、柄のない槌のような形をしているとされます。

野槌とは蛭子を妖怪化したものではないでしょうか?

さらに聖徳太子と物部守屋が陰陽に描き分けられているとすれば、聖徳太子は耳がよかったので、物部守屋は耳が悪いとなり、蛭子と同一神なのではないかと思えます。

すると守屋は耳が悪いだけでなく、手足もなく、野槌とは物部守屋を妖怪化したものであるようにも思えます。

達磨寺 梅 

⑦重なる達磨と野槌のイメージ

さらに、達磨は瞑想をやりすぎて手足が腐ってしまったという伝説があり、縁起物の達磨が手足のない姿につくられているのはそのためだといわれます。

達磨と手足のない野槌のイメージが重なりますね。

このように考えると、物部守屋は達磨の生まれ変わりなのではないか?と思えるわけです。

勝尾寺  
勝尾寺 だるま


⑧達磨は何度も生き返る様をあらわしている?

話はかわりますが、『景徳伝燈録』に次のような物語があります。

達磨(インド人で中国禅宗の開祖。5世紀後半から6世紀前半)が遷化(死亡)してから3年後、宋雲という人がパミール高原の葱嶺で履き物の片方を手にして歩く達磨に出会いました。
宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る。あなたの主君はすでにみまかっている」と答えました。
帰国した宗雲は孝明帝が崩御したことを知ります。
そして孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていました。



達磨はいったん死んだのに生き返って歩いていたというのです。
これは達磨が生き返ったということです。

縁起物の達磨は起き上がり小法師になっていますね。
底を丸い形にし、おもりをいれることで、転ばしても転ばしてもおきあがるわけですね。




なぜ達磨が起き上がり小法師になっているのかというと、達磨は何度でも生き返るという信仰があったためではないでしょうか。






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[2020/02/24 20:46] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

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