Author:佳音
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京都府南丹市美山町 茅葺の里 知井八幡神社 ①八股角鹿伝説美山の知井八幡神社にはこんな伝説が伝えられているそうです。713年、元明天皇の時代、八つの頭を持つ「八股角鹿」という大鹿が現れ、人々に災いをもたらしていました。甲賀三郎兼家はこの大鹿を退治するため丹波北部にやってきて、京北弓削の八幡宮社で神に祈り、弓矢をもって山に入りました。そこへ二人の童子が現れて兼家を八丁山へ案内しました。八丁山(京都府南丹市美山町佐々里)につくと洞窟から八頭の大鹿が現れて兼家にとびかかってきました。兼家が放った矢は鹿に命中しました。鹿は山を下りて逃げていきましたが、力つきたところを、兼家に斬られて絶命しました。血で岩や道が赤くなっていたため、赤石ヶ谷と呼ばれるようになりました。兼家は佐々里の里へと下り、祠をたてて八幡大明神を祀り神のご加護に感謝しました。これが今の知井八幡神社です。その後、甲賀三郎兼家とその家来が美山のまちを開きました。 知井八幡神社②八股角鹿と角鹿(つるが)鹿の名前が「八股角鹿」というのが気になります。「角鹿」は越前国の敦賀(つるが)の古名です。古事記仲哀天皇代にこんな話があります。武内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神が現れ、「御子(応神天皇)と私の名前を交換してほしい」と言ったので、武内宿禰はこれを承知しました。翌朝、海岸に行ってみると、たくさんの鼻を傷つけられたイルカがいました。御子は「神様が御饌を下さった」と大喜びしました。イルカの血で臭かったので、血浦となり、これが訛って角鹿(ツヌガ/現在の敦賀)となりました。また日本書紀・垂仁天皇2年条にこんなことが記されています。垂仁天皇の時意富加羅国の王子・ツヌガアラシトが笥飯(けひ)浦にやってきました。額に角があったので、この地を角鹿と称しました。伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされます。帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。たまたま大鹿と地名が同じ角鹿だったとは思えないです。というのは、兼家が知井八幡宮を創建していますが、八幡神とは応神天皇のことだからです。 四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。③713年の日食・飢饉・大風被害①の伝説に713年、元明天皇の時代、八つの頭を持つ「八股角鹿」という大鹿が現れ、人々に災いをもたらしていました。とありますが、八股角鹿がもたらした災いとはどんなものでしょうか。713年3月1日に日食が観察されています。人々はこれを不吉なことがおこる前兆ではないかと、不安な思いで見つめたことでしょう。その後、志摩、大和、讃岐などで飢饉がおこっています。また 伊賀・伊勢・尾張・三河・出羽が大風で被害をうけています。これらは八股角鹿の仕業で引き起こされたものであると考えられたのではないでしょうか。敦賀の気比神宮と美山は直線距離で20kmほどです。若狭から京へ魚介類を運ぶルートはいくつかありましたが、すべて鯖街道と呼ばれていました。美山を通るルートもありました。平城宮跡や、奈良県明日香村で発掘された木簡から、若狭から鯛の寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定されています。そして美山からみて、気比神宮のあるあたりは鬼門の東北に近い方角にあります。713年の日食・飢饉・大風は敦賀・気比神宮の神の祟りと考えられ、その結果、気比神宮の西南にあたる美山に知井八幡神社をたて(美山からみて気比神宮は鬼門の方向にあたるので)、八股角鹿伝説が創作されたのではないでしょうか。 知井八幡神社 知井八幡神社 向かって右に知井八幡神社の鳥居が見えています。 ※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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