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田中神社(東山区) 紅葉 『和泉式部が出会った田刈る童の正体とは?』 


京都市東山区 田中神社

田中神社

①稲荷の叔母神


伏見稲荷大社の北東、本町通(伏見街道)沿いに田中神社があります。
伏見稲荷大社の境外摂社ですよ。
「稲荷の叔母神」と呼ばれています。

急いでいたので前を通り過ぎただけで、境内には入らなかったのですが
北に田中社、南に四大社を祀っているとのことです。

田中大神は伏見稲荷大社五柱のうちの一柱とのこと。

伏見稲荷大社五柱は次のとおり。
中央 
 
下社ウカノミタマ
中社佐田彦大神
下社大宮能売大神
田中大神    ※1499年合祀
四大神     ※1499年合祀

稲荷山荒神峯にも田中社神蹟があるそうです。

伏見稲荷大社 千本鳥居 雪 
伏見稲荷大社 

②四大神は紀氏の神だった。

柴田實氏によると、四大神とは、五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)、事八十神の四柱の神々のことだということです。(式内社調査報告)

五十猛命(イソタケル)は、スサノオの子で、林業の神です。
記紀の記述によれば五十猛神は紀伊国に祀られている神とあります。紀伊国とは紀州のことです。

また記紀は、大屋都姫命(大屋姫)はスサノオの娘で、五十猛命は兄、抓津姫は妹としています。
大屋都姫命と抓津姫はスサノオに命じられて五十猛命と共に全国の山々に木種を撒いたあと紀伊国に戻ったとあります。

五十猛命(いそたけるのみこと)スサノオの子林業の神
大屋姫(おおやつひめ)スサノオの娘 五十猛命の妹 抓津姫の姉スサノオの命で全国山々に木種をまいて
紀伊国に戻る。
抓津姫(つまつひめ)スサノオの娘 五十猛命の妹 抓津姫の妹
事八十神


和歌山市宇田森の大屋都姫神社では大屋都姫命を、和歌山市伊太祈の伊太祁曽神社では五十猛命を主祭神としています。
都麻都姫命(抓津姫)は都麻都比売神社の主祭神とされていると古い文献には記されていますが、この都麻都比売神社が現在のどの神社のことであるのかは不明です。

紀州は古より林業が盛んだったので、紀州の人々は林業の神・五十猛神や、木種をまいた大屋都姫命・抓津姫を信仰していたのでしょう。

そして紀州は紀氏の本拠地でした。
五十猛神・大屋都姫命・抓津姫は紀氏の神だと考えられるでしょう。

伏見稲荷大社 狐 雪2 

伏見稲荷大社

③伏見稲荷大社は紀氏の神を奪った?

伏見稲荷大社の南に紀氏の神を祀る藤森神社がありますが、もともと藤森神社は伏見稲荷大社の場所にあったとされています。
その場所に伏見稲荷大社が建てられることになったので、藤森神社は移転しました。



藤森神社 藤森祭 神輿
 
藤森神社 藤森祭


そのため、伏見稲荷大社付近の人々は今でも藤森神社の氏子だといいます。
藤森神社の祭礼では氏子さんたちは神輿を担いで伏見稲荷神社に乗り込み、その境内にある藤尾社の前で「土地返しや、土地返しや」と叫び
稲荷神社側の人々は「神さん、今お留守、今お留守」と言い返すそうです。

伏見稲荷大社があるあたりは山城国紀伊郡といい、もともとは紀氏の土地でした。
しかししだいに藤原氏や秦氏が権力を持つようになって紀氏は土地を奪われたと考えられています。

伏見稲荷大社の四大神が紀氏の神だということは、藤原氏や秦氏は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということではないでしょうか。

和歌山県有田氏の糸我稲荷神社が最古の稲荷社だともいわれています。

伏見稲荷 御田植神事 

伏見稲荷大社 御田植神事 

④空海の前に現れた紀州の神


田中神社はもともとは南区の九条あたりにあったそうです。
東寺があるあたりですね。
伏見稲荷大社は東寺の鎮守です。
伏見稲荷大社と東寺はそういう関係にあるので、伏見稲荷大社の境外摂社である田中神社がおかれていたのでしょうか?
あるいは伏見稲荷大社のあたりに藤森神社があったころから、東寺付近に田中神社はあったのかも?

ちなみに東寺の創建は796年、伏見稲荷大社の創建は和同年間(708年~715年)とされます。
しかし和同年間に創建されたのは紀氏の神社・藤森神社の前身としての伏見稲荷大社だと思います。

というのは、 『稲荷大明神流記』に次のように記されているからです。

816年、紀州国の熊野で空海に老翁がこう言った。
「私は神である。あなたには威徳がある。私の弟子となるがよい」
空海は答えた。
「私は密教を広めたいという願いがあります。あなたには仏法でそれを守ってください。
京の都の九条にある東寺であなたを待っています。」
823年、空海は東寺を賜って真言の道場とした。
そこへ紀州の神が、椙(すぎ)の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れてやってきた。
空海は17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。

この話から、大同年間、ここには紀氏が祭祀する神社があったが、823年に空海が紀氏の神を鎮め、東寺の鎮守にしたと考えられます。

③で次のように書きました。
「伏見稲荷大社の四大神が紀氏の神だということは、藤原氏や秦氏は紀氏の土地を奪っただけでなく、紀氏の神まで奪ったということではないでしょうか。」と。

空海は俗名を佐伯真魚といいますが、佐伯氏は秦氏ではないかともいわれています。

東寺 五重塔 
東寺

⑤和泉式部が出会った田刈る童の正体とは?

田中神社は洪水があったため、現在地に遷宮したといわれます。

いつごろ遷宮したのかわかりませんが、和泉式部((978年頃 - ?)が生きていた時代にはすでに遷宮していたのかもしれません。

こんな話が伝えられています。

和泉式部しにびて稲荷へまいりけるに、田中明神の程にて時雨のしけるに、いかがすべきと思けるに、
田刈りける童の、あおといふ物をかりてきてまいりにけり。
つぎの日、式部はしのかたをみだしてゐたりけるに、大(おほき)やかなる童の、文もちてたゝずみければ、
『あれはなにものぞ』といへば、『此御ふみまいらせ候はん』といひて、さしをきたるを、ひろげてみれば、
"しぐれするいなりの山のもみぢ葉は青かりしより思ひそめてき"とかきたりけり。
式部あはれと思ひて、このわらはをよびて『おくへ』といひてよびいれけるとなむ。


『古今著聞集(鎌倉時代)』巻五中「田刈る童との説話」


 
和泉式部が(しにびて?)稲荷をお参りし、田中明神のあたりで時雨にあった。
どうしたものかと思っていると、田を刈る童が襖(あ襖お)という着物を借りてきてくれた。
次の日、式部は(しのかたをみだして?)いると、大きな童が文を持って佇んでいた。
「あれは何者か」と問うと「この手紙を持ってまいりました」といって手紙を置いた。
手紙を広げてみると「時雨する 稲荷の山の もみじ葉は 青かりし(襖借りし)より 思いそめてき」と和歌が記されていた。
式部はしみじみと思い、この童を呼んで『奥へ』と言って呼び入れた。


田を刈る童とは、空海が出会った稲を背負う紀州の老翁が姿形を変えた神ではないでしょうか。

そして田中大神の正体もまた、空海が出会った稲を背負う紀州の老翁が姿形を変えた神であるように思えます。

東寺 五重塔 
東寺




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