大阪市北区 大阪天満宮
流鏑馬式・・・10月25日 ●オフィス街を駆け抜ける流鏑馬関西で流鏑馬といえば京都の下鴨神社とか滋賀の近江神宮などが有名です。
下鴨神社や近江神宮には長い参道があり、そこで流鏑馬が行われます。
でも大阪天満宮は表門を入ると目の前に拝殿があり、馬が駆けていけるような長い参道はありません。
大阪天満宮で流鏑馬が行われると聞いたんですが、いったい馬はどこを駆けるのでしょうか?
大阪天満宮の表門から馬に乗った人が出てきましたよ。
道の両脇にはオフィスビルがゴミゴミと建ち並んでいます。
みめうるわしい殿方ばかりでうれしくなっちゃう~♪(スケベ)
もしかして、オフィスビルが建ち並ぶこの道で流鏑馬やるんすか?
こんなところで弓矢放ったらあぶないやん!
と思ったら、半弓で的をたたいて破っていました!
●大阪天満宮 流鏑馬の起源大阪天満宮の流鏑馬の起原ははっきりしないそうですが、1588年に流鏑馬を行ったという記録があります。
『難波鑑(1676年)』には失踪する馬上から的を矢で射る様子が記されています。
このころはまだ一般的なスタイルの流鏑馬が行われていたのですね。
『葦の若葉/大田南畝(1801年)』には現在と同じ、馬上から半弓で的を破る流鏑馬の様子が記されています。
1800年ごろの大阪天満宮の周囲はすでに民家などが密集していて、安全を考えて独特の形式が生み出されたのだろう、とのことです。
●松平忠明が天満宮に乗馬を奉納した理由安土桃山時代、松平忠明という人がいました。
松平忠明は徳川氏の重臣・奥平信昌の四男で、母親は徳川家康の娘・亀姫でした。
つまり松平忠明は家康の外孫だったのですね。
1588年に徳川家康の養子となり、松平姓を賜っています。。
1603年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。
1614年に大坂冬の陣、1615年に大坂夏の陣がおこり豊臣氏は滅亡しました。
松平忠明は大阪の陣で手柄をたてて摂津大坂藩10万石の藩主となり、大阪城に入城しました。
そして同年、松平忠明は幕命により乗馬を大阪天満宮の神事に奉納しています。
松平忠明および幕府は大阪天満宮に大阪の陣の勝利祈願をかけていたのでしょう。
そしてそれが叶えられたので乗馬を奉納したのかな、と思ったりします。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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