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園城寺(三井寺) 紅葉 『大友与多王の正体』 


滋賀県大津市 園城寺(三井寺)

園城寺6


①大友皇子の子の与多王が創建した寺


園城寺の創建は次のように伝わっています。

天智天皇は667年大津京を造営して遷都したあと、念持仏の弥勒菩薩像を建立したいと考えていましたが、果たせないまま672年に崩御されました。
同年、天智天皇の皇子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子が皇位をめぐって争います。(壬申の乱)
結果、大海人皇子が即位して天武天皇となり、大友皇子は自害して果てました。25歳の若さでした。
大友皇子の子の大友与多王(よたのおおきみ)は、父・大友皇子の菩提を弔うために、天智天皇念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しました。
686年、天武天皇はこの寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えました。
園城寺という寺号は大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に心を打たれてつけたとされます。


園城寺の通称・三井寺は、寺にある井戸(閼伽井屋)の霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯に使われたため、
御井→三井となったといわれます。

金堂付近より飛鳥時代~奈良時代前期の瓦が出土しているので、創建時期はほぼ上の伝説にちかいと考えられます。

園城寺4

②園城寺は大友氏と関係が深い

大友氏と園城寺との関係を示す史料もあるということです。

大友氏は近江国周辺に住んでいた氏族で、姓(カバネ)は村主、曰佐、史、連、宿禰、漢人があります。
姓とは、古代日本において、天皇から有力氏族に与えられた王権との関係や地位を示す称号です。

村主(すぐり)は古代朝鮮語で「族長」という意味で、地方官職名または朝鮮系漢人(あやひと)集団の統率者ではないかとされます。

史(ふひと/ふみひと)とは、古代の日本において文筆や記録を行ってい渡来系官人組織で、のちに姓になりました。
先祖が史という官人であったとか、代々史の官職についていたということかもしれませんね。

連(むらじ)は臣(おみ)とともに高位の豪族の称号。

宿禰は武人や行政官を表す称号。

漢人は中国系帰化系氏族の称号だと思います。(まちがってるかも)

大友氏は大友皇子の支持勢力であると考えられているようです。

園城寺3

与多王は伝承的人物

園城寺を創建した大友与多王は、日本書紀には名前がありません。
『本朝皇胤紹運録』には「大友皇子-与多王(大友賜姓)-都堵牟麿-黒主」いうい系図はあるほか、大津市内の御祭神、古墳の被葬者としては名まえがありますが。

そのため伝承的人物とされています。

ちなみに実在が確認される大友皇子の子としては葛野王(かどののおう/669-706)がいます。
淡海三船は葛野王の子・池辺王の子で、葛野王の孫にあたります。
彼は751年に淡海真人の氏姓を与えられて臣籍降下しています。

淡海三船はすでに諡号を贈られていた文武天皇をのぞき、神武天皇から元正天皇までの全ての天皇に漢風諡号をつけたことで有名ですね。

園城寺

④天武天皇はなぜ「園城寺」の寺号を与えたのか

大友皇子と天武天皇は皇位継承を争った敵同士ですが、なぜ天武天皇は敵である大友皇子を弔うための寺の建立を許し、「園城寺」という称号を与えたのでしょうか?

天武天皇は心が広かった?

いやいや、天武天皇は大友皇子の怨霊を恐れ、それで大友皇子の霊がきちんと成仏するようにとの願いをこめて寺の建立を赦したのではないかと思います。

いや、もっと積極的に、大友皇子の霊を弔うための寺を建立したいと強く願い、寺の建立を推し進めた可能性もあると思います。

園城寺7

日本には古より怨霊信仰がありました。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業で引き起こされると考えられていたのです。
そして、荒ぶる怨霊は十分に慰霊すると、ご利益を与えてくださる和霊に転じると考えられていました。
さらに、神仏は本地垂迹説で同一視されます。
本地垂迹説とは、日本古来の神々(権現)は仏教の神々(本地仏)の生まれ変わりであるとする考えかたです。
たとえば、天照大神の本地仏は大日如来であるとか、菅原道真の本地仏は十一面観音であるなどのように考えられていました。
すなわち、天照大神と大日如来は同一神、菅原道真と十一面観音は同一神のように考えられていたということです。
ただし、寺社によって権現と本地仏の組み合わせはかわりますし、十一面観音を本地仏とする神は菅原道真以外にもあります。

つまり、天武天皇が大友皇子の怨霊を恐れ、大友氏に命じて創建させたのが園城寺なのではないか?ということです。

園城寺2 

⑤与多王は大友皇子の分霊?

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その②』 
↑ こちらの記事にこんなことを書きました。

「奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっていますが、
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思います。」と。

志貴皇子=春日宮天皇=田原天皇
志貴皇子の子=春日王=田原太子

そして、「神が子を産むとは、神が分霊をつくる」という意味ではないかという説もあります。

つまり、「春日王は春日宮天皇(志貴皇子)の子」というのは「春日王は春日宮天皇の分霊」ということであり
与多王は大友皇子の分霊ということではないかと思ったりするわけです。
与多王は大友与多王とも呼ばれるのは、大友皇子の分霊であるからかも?

それに与多王という名前、いかにも偽名っぽいですよね。「大友の多くを与える王」ですから。
そして、この名前は「園城寺という寺号は大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に心を打たれてつけた」という伝承を思い出させますね。

もしかすると三井寺あたりは大友皇子が所有する土地で、それを天武天皇が没収して三井寺を建てたのかもしれませんね。

園城寺5 




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[2020/01/11 22:06] 滋賀県 | TB(0) | CM(0)

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