fc2ブログ














白崎海岸 夕景など 『曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?』 


和歌山県日高郡由良町 白崎海岸 

白崎海岸へ向かう 
カーブを曲がると不思議な白い岩の島があらわれた!

①由良は丹後?それとも紀伊?

由良の門(と)を渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな/曽禰好忠(そねのよしただ)

(由良の門を渡る舟人が船を操るかじを失って漂うように、ゆくえのわからない恋の道であることよ。)


百人一首にもとられている有名な歌ですね。

この歌にでてくる『由良の門』については、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあります。

由良の御崎は和歌山県和歌山県日高郡由良町神谷当たりと思われます。
由良町神谷は白崎海岸から約2kmほど南になります。

白崎海岸 5 
石灰岩なので白いのですね。 石灰岩は水に溶けやすいので浸食されて、穴があいています。昔このあたりまで海だったのか?隆起したのか?

②曽禰好忠は偏屈ではなく「いじめ」に立ち向かったのでは?

曽禰好忠という人を調べてみるとあちこちのサイトに「偏屈」「奇行が多い」などと出てきます。

985年、円融上皇が紫野において子の日の御遊のさいに歌会を開きました。
子の日の御遊とは、正月初子の日に紫野などの丘に登り、若菜を摘み、小松を引く行事のことです。
上賀茂神社で現在も行われている燃灯祭はこの『子の日の御遊』の伝統を伝えるものだと思います。

上賀茂神社 燃灯祭 『小松と玉箒草は夫婦和合を意味している?』  燃灯祭

上賀茂神社 燃灯祭3

上賀茂神社 燃灯祭

こういった小松引きなどの行事を行ったあと、歌会が行われたのでしょう。。

歌会は官位に関係なく歌人の歌を鑑賞しようという趣旨で行われたのですが、曽禰好忠は招待されませんでした。
そこで曽禰好忠は強引に参加しようとしたのですが、藤原実資、藤原朝光らが追い出したというのです。

うーん、でもこの逸話をもって偏屈というのはどうかと思います。
会社の飲み会などで、ひとりだけ仲間はずれにして誘わないというようなこを聞いたことがあります。
これは「いじめ」ですよね。
曽禰好忠も「いじめ」を受けたということかもしれません。
そしてそういった「いじめ」に屈することなく乗り込んでいったというのは、ある意味すごいことだと評価したくなったりもしますね。

白崎海岸 3 

③藤原氏の曽爾氏排斥?


また藤原氏の他氏排斥は有名で、大伴氏(伴氏)、紀氏、橘氏、菅原氏など多くの氏族が藤原氏の陰謀によって没落させられています。
曽禰氏は物部氏の一族で、『新撰姓氏録』でも「石上同祖、ニギハヤヒの六世孫イカガシコオの後裔、采女臣同祖」などと記されています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神です。采女臣はニギハヤヒを祖とする穂積氏から分かれた氏族です。

曽爾氏も藤原氏によって排斥されようとしていたのかもしれませんね。

白崎海岸 4

④曽禰好忠は丹後掾だったので、丹後の由良?

①でこの歌で詠まれた『由良』は、丹後由良川の河口説と紀伊国(現在の和歌山県日高郡由良町)由良の御崎説のふたつがあるといいました。

紀伊国・由良の御崎は新古今集の時代には有名な歌枕だったそうです。
『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄)』などは紀伊国由良としています。

しかし契沖は『百人一首改観抄』で次の様に述べています。
「曽禰集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」

つまり、曽禰好忠の役職は丹後掾で、うかない人生であったこと述懐する歌が多いので、
「由良の門を~」の歌の「由良」は丹後の由良、つまり宮津の由良川の河口ではないか
と、契沖は言っているわけです。

京都府の宮津市にある由良川は天橋立の東南東5kmほどのところにあります。
由良川は残念ながら見たことがありません。

白崎海岸 1 

⑤丹後の由良川の河口は潮の流れが激しいか?


こんな風に書いてあるサイトがありました。
由良は丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川の河口です。「門(と)」は、海峡や瀬戸、水流の寄せ引く口の意味で、河口で川と海が出会う潮目で、潮の流れが激しい場所です。

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/046.htmlより引用。




由良川河口付近の動画があったのでお借りしました。
そんなに潮の流れが激しいようには思われませんね。

⑥由良に風力発電所が作られたのは風がきついためでは?

私が白崎海岸に行った日はものすごい風で、三脚が吹き飛ばされそうでした。
髪もあっという間にぐちゃぐしゃに~。
波も高かったです。
天候にもよると思いますが、気になるのは風力発電用の風車が何基も並んでいたことです。

風力発電の風車がつくられているということは、風が強い地域だということではないかと思ったんですが、どうでしょう?
そして舟人はこの風でかじを吹き飛ばされてしまったのでは?
三脚が吹き飛ばされそうな風ですから、船人のかじも吹き飛ばしそうです。

由良風力発電所 風車 

⑦曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだ?

曽禰好忠は紀伊と丹後、両方の由良をイメージして歌を詠んだのではないか、と私は思います。

紀伊の由良は歌枕として有名なので、この歌を聞いた人はまず紀伊の由良を思い浮かべるだろう、という計算を曽禰好忠はしていたんだったりして?

強い風、荒い波、白い石灰岩の磐がせまる荒々しい光景に、人々は曽禰好忠の人生の厳しさを思い浮かべたかもしれません。

そうして鑑賞する人々を欺きつつ、実は曽禰好忠の本心は丹後の由良にあるんだったりして?
かじを失った舟人(曽禰好忠自身を比喩したもの)は海を漂ってどこにいきつくのでしょうか?

由良川の河口を出ると、すこし行ったところに天橋立があります。

天の橋立 

天橋立

天橋立は股除きといって、脚を広げて大の字に立ち、前屈して見る習慣があります。
こうしてみると、海ではなく天上にかかる橋のように見えるというわけです。

天上人とは天の上に住む人の意味で、そこから転じて身分の高い人を意味することになりました。

また天上人と同音異義語で殿上人(てんじょうびと)という言葉があります。

殿上人についてウィキペディアは次のように説明しています。

9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者(三位以上は原則全員、四位・五位の一部)の中から公卿を除いた四位以下の者を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8A%E4%BA%BA より引用

曽禰好忠は漂った船がこの天橋立を通って天上にいき、天上人(殿上人)になれるという祈りをこめて、この歌を詠んだのかも?

そして曽禰好忠のよばれていない歌会に強引に参加しようとしたというエピソードは、この歌の意味を知っている人によって創作されたものなんじゃないか、などと思ったりもします。

白崎海岸 2 

白崎海岸 夕日 
白崎海岸 夕日2



※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。

歴史ブログ・
旅 free style もよろしくお願いします~。

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!




にほんブログ村   






関連記事

[2019/12/28 12:16] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kntryk.blog.fc2.com/tb.php/1650-0b810ccd