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大阪城 夕景  『豊臣秀吉とBL』 

 大阪市中央区 大阪城
2010年11月7日 撮影


大坂城 夕景

●太閤さんの城


大阪城は『太閤さんの城』と呼ばれています。
太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物のことですが、一般に『太閤さん』といえば豊臣秀吉のことをさします。
しかし秀吉が築城した大阪城は1614年の大坂夏の陣で焼失し、現存する櫓や石垣などは江戸幕府によって築造されたものなのだそうです。

豊国神社(長浜)豊公神社 

豊国神社(長浜) 豊公祭


●秀吉はたいへんな女好きだった。

秀吉は当時たしなみとされていた男色には興味がなく、たいへんな女好きで、多くの側室をもっていました。

秀吉が美少年の小姓・池田信輝の三男・羽柴長吉を呼び、「姉か妹はいないか」と聞いたという話は有名ですね。
羽柴長吉があまりに美しいので、彼に姉妹があるとすれば、相当な美女だろうと秀吉は思ったというのです。

 豊国神社(長浜) 豊公祭 

滋賀県長浜市 豊国神社 豊公祭


●秀吉は少しはBLに興味があった?

しかし、最近『BL新日本史』という本を図書館で借りて読んだところ、「秀吉は全く男色に興味がなかったというわけではない。」というようなことが記されていました。
その本は返却期限がきて返してしまったので、ネットで調べてみました。
『石田軍記』に「秀吉と石田三成がBLの関係だった」と記されており、また南方熊楠は「秀吉と織田信忠がBLの関係だった」と言っているそうです。

金剛寺 菊滋童 屏風

菊滋童の屏風 金剛寺(奈良県五條市)


●戦国時代、なぜBLが流行したのか?

戦国時代にBLが流行したのはなぜなのでしょうか。
それは生理的な理由というよりも、信仰上の理由があったのではないかと私は考えています。

最近、町のあちこちで菊が飾られているのを見かけます。
旧暦では今頃が重陽の節句ですね。

9月9日は重陽の節句(菊の節句)でたいへんおめでたい日とされていましたが、
重陽の節句には菊滋童の舞が舞われたり、菊滋童の絵が描かれた屏風が展示されたりします。

周の穆王が寵愛していた少年・菊慈童は、あるとき誤って帝の枕の上を超えてしまい、レッケン山に流刑となりました。
穆王は菊滋童に観世音菩薩 普門品というお経にある「具一切功徳慈眼視衆生、福聚海無量是故応頂禮」を毎日唱えるようにと言いいました。
菊慈童がこれを菊の下葉に書きつけたところ、菊の下葉の露が不老長寿の薬となりました。
そしてそれを飲んだ菊滋童は700歳の長寿を得ました。


菊滋童は菊の露を飲んで700年の長寿を得たとされる伝説の少年です。
秀吉が朝廷より豊臣姓を賜ったのは天正14年9月9日ですが、吉日ということでこの日が選ばれたのでしょう。

 法輪寺 重陽神事2

重陽神事 菊滋童の舞 (京都 法輪寺)

陰陽道では奇数を陽、偶数を陰とします。
そして性別では男性が陽で、女性が陰です。
男性と男性が重なることはまさしく重陽じゃないですか。

上のgifアニメは能・菊滋童ですが、ウィキペディアの男色のページに次のように記されています。

「この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B#.E5.AE.A4.E7.94.BA.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.9A.E6.AD.A6.E5.A3.AB.E3.81.AE.E7.94.B7.E8.89.B2より引用

そして重陽は不老長寿の象徴なので
BLは不老長寿をもたらす呪術として尊ばれたのではないかと思うのです。
菊は昔からBLの象徴でもありました。

昔の人にとって陰陽道は科学だったそうなので、秀吉も多少はたしなんだのではないかと思います。

金剛寺 菊枕 

菊枕 金剛寺(奈良県五條市)


●不老長寿とは子孫繁栄のこと?

実際には菊滋童のように700年も生きるのは不可能で、不老長寿とは子孫繁栄のことだと聞いたことがあります。
しかし秀吉は子供にめぐまれませんでした。
南殿との間に生まれた長子・羽柴秀勝は6歳で夭折。
淀殿との間に生まれた次男・豊臣鶴松は3歳で夭折。
そこで秀吉は甥の豊臣秀次を養子としましたが27歳のとき秀吉に切腹を命じられて没しました。
秀次を養子としたあと淀殿との間に三男・豊臣秀頼がうまれたため、秀吉は秀次を疎んで切腹を命じたという説があります。
こうして秀吉の死後秀頼は秀吉の跡をつぐのですが、しだいに徳川家康が権力を握るようになっていきます。
そして1615年の大阪夏の陣で、大阪城天守閣は炎上し、秀頼は母親の淀殿とともに自害して果てたのです。
享年23歳でした。
こうして豊臣家は滅亡してしまいました。

秀吉が不老長寿の呪術ともいえるBLにもっと励んでいれば、秀吉の子孫は繁栄したかも?
案外、秀吉の子孫が断絶してしまったため、「秀吉はBLに興味がなかった」などと言われているのだったりして?
んなわけないか。

大坂城 夕景



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/30 00:00] 大阪府 | トラックバック(-) | コメント(-)