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交野天神社 紅葉 『継体天皇は紀氏と関係ある?』 


大阪府枚方市 交野天神社

交野天神 拝殿2 
交野天神社 拝殿

①交野天神

交野天神社は閑静な住宅街の中にあり光仁天皇・天児屋根命・菅原道真をお祭りしてます。
『続日本紀』や『石清水神宮縁起』に「787年、桓武天皇が交野に父・光仁天皇を祀るための郊祀壇を設けた」という記述があり、それがこの交野天神の創建だと考えられています。
天児屋根命は中臣氏の祖神で、中臣鎌足は中大兄皇子より藤原姓を賜ったので、藤原氏の氏神である春日大社にも祀られ春日明神と呼ばれています。
菅原道真は901年に藤原時平の讒言で大宰府に流罪となり、903年に大宰府で没しました。
その後、都では疫病の流行、天災などが相次ぎ、それらは菅原道真の怨霊の仕業であるとして、怨霊を鎮めるため北野天満宮や大阪天満宮などが作られました。

そう考えると、藤原氏の祖神の天児屋根命と菅原道真を祀っているのはおかしなことに思えます。
しかし、ずっとのちの時代になって、そういった藤原氏と道真の因果関係の記憶などが人々の心の中から薄れてからのち、ともに祀られるようになったのかもしれません。

②継体天皇と鍛冶

交野天神 貴船神社2 
交野天神社 境内

神社の奥まったところに小高い丘があり、階段のふもとに「継体天皇樟葉宮地」と刻まれた石碑が建てられていました。
交野天神は継体天皇樟葉宮の跡地であるという伝承もあるのです。

継体天皇の和風諡号(しごう)は日本書紀は男大迹王(をほどのおおきみ)、古事記は袁本杼命(をほどのみこと)と記しています。

ヲホドとは小火床であり、鍛冶に関係があるのではないかとも言われています。
火床とは鍛冶をするための簡単な炉のことです。

交野天神社からそう離れてはいない枚方市岡本町に下井戸跡があり、案内板に次のように記されているようです。

「枚方宿4カ村の内、岡村の地下水は鉄気が多く飲料水に適さなかったため、古来より万年寺山や別子丘陵に取水の元井戸を掘り、導水管により水を供給していました。」

https://ja.localwiki.org/hirakata/%E4%B8%8B%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%B7%A1より引用

また枚方に茄子作という地名がありますが、惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。

鈴は土で作られることもありますが、金属で作られることが多いです。

また、鈴は錫をあらわしているのかもしれません。

このようにこの土地は古くは鍛冶と関係があったのではないかと思われるふしがあります。

本尊掛松(枚方市茄子作) 

本尊掛松(枚方市茄子作)

③継体天皇即位は新王朝か?

継体天皇は応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、.越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったとされます。

継体天皇の即位について、次のように記したサイトがありました。

 日本書紀はそのあたりの状況を大略次のように述べている。
男大迹 (おおと) の王、後の継体天皇は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた王である。
彼が五十七歳の時、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去したが、子供がなかったために大王位の継承者がなかった。
そこで、重臣の大伴金村 (おおとものかなむら) は人々と議し、 仲哀天皇の末裔なる倭彦王を丹波から迎えて後継者とすることにして迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった。
そこで、金村は人々と再び議し、応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送る。
男大迹もまた討伐軍かと疑ったが、直ちに河内馬飼首荒籠のもとへ使いを走らせて情報を連絡させ、 その軍が迎えの軍であることを確認し、金村の求めに応じて楠葉に至って、 ここで即位して継体天皇になったと述べている。

http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/umakai.htmlより引用

大神社 
交野天神社 大神社  御祭神は天照大御神 と 神武天皇

まとめると次のような内容になるかと思います。

a.男大迹 の王(のちの継体天皇)は越前から近江にわたる範囲に勢力を張っていた。
b.男大迹 の王57歳のとき、大和では応神王朝最後の大王武烈が薨去して後継者がなかった。
c.大伴金村らは仲哀天皇の末裔・倭彦王を丹波から迎えて後継者にすることにし、迎えの兵を送ったが、 倭彦王は討伐の軍と勘違いして逃げ失せてしまった
d.、大伴金村は応神天皇の末裔の男大迹 (おおと) 王を越前から迎えることにして軍を送った。
e.男大迹 の王も討伐軍かと疑い、使者を河内馬飼首荒籠のもとへ送った。そして軍が討伐ではなく迎えのためであることを確認し樟葉宮で即位した。

継体という漢風諡号は奈良時代になってつけられたものですが、新王朝という認識があったことから『継体』という諡号をつけたのではないかという説があります。

これが正しければ、よく右寄りの人がいう「一系万世」は事実ではないということになります。

継体天皇即位は新王朝なのでしょうか?
私はこの説はありえると思います。

交野天神 説明板

交野天神社 説明板

④神武天皇=応神天皇?

初代神武天皇は日向から東征して畿内入りしたとされます。
一方、15代応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが、このルートが神武東征ルートと重なるところから
二天皇は同一人物ではないかとする説があります。

⑤応神天皇は二人いた?

記紀は15代応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換したという物語を記しています。
名前を交換するということは、応神天皇が伊奢沙和気大神に皇位を譲った話であるようにも思えます。

伊奢沙和気大神は福井県敦賀市にある気比神宮の神です。
気比神宮の摂社に角鹿(つぬが)神社があり、ツヌガアラシトを祀っています。

ツヌガアラシトは祟神58年(紀元前40年)に朝鮮半島から日本にやってきて、崇神天皇に5年仕えたとされる人です。
帰国の際、崇神天皇はツヌガアラシトの国に任那という国号を与えたとされます。

ツヌガアラシトを祀る角鹿神社が気比神宮の摂社ということは、
気比神宮の御祭神・伊奢沙和気大神もまた朝鮮半島からやってきた人なのではないかと思ったりするのですが?

四天王寺ワッソ 5 
四天王寺ワッソ ツヌガアラシト 角がある人、という意味みたいですね。

⑥継体天皇はイザサワケ大神と関係がある?

気比神宮は福井県敦賀市にあったのでしたね。
そして、応神天皇の5世孫である継体天皇は越前・三国(福井県坂井市三国町)で育ったのでした。
継体天皇はなぜ、越前三国で育ったのでしょうか?
それは継体天皇がイザサワケ大神と関係のある神だからではないでしょうか?

継体天皇が関係あるのは、もともとのイザサワケ大神なのか?それとも名前を交換したあとのイザサワケ大神なのか?

日本書紀は名前を交換するという説話を掲載するなどして、読者を混乱させようとしているように思えます。

⑦樟葉宮伝承地と貴船神社

②のところに貼った写真の、階段を上っていくと貴船神社があり、その神社の傍らにも「継体天皇樟葉宮跡伝承地」と刻んだ石碑がたっています。

交野天神 貴船神社 
交野天神社 貴船神社

貴船神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と継体天皇です。
兵庫県尼崎市の長洲貴布禰神社には次のように伝わっています。

平安京遷都の際、調度の運搬を命ぜられた紀伊の紀氏が「任務が無事遂行できますように」と自身の守り神に祈願したところ、事がうまく運び、そのお礼にこの社を建てました。

貴船神社(貴布禰神社)は紀氏の神で、もともとは紀船神社だったのではないでしょうか。

なぜ継体天皇樟葉宮跡伝承地にその貴船神社があって継体天皇を祀っているのでしょうか?

『日本書紀』に次のような内容が記されています。

507年、継体天皇、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に遷都
518年、弟国宮(京都府長岡京市)に遷都
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-33.html
上のサイトに、紀氏の荘園が記されていますが、「古代京都府南部」としるされています。
京田辺・長岡京などは紀氏の荘園があったようです。

また枚方の天田神社は紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領だったとされ、紀氏の母親をもつ惟喬親王の別荘・渚の院もありました。

石清水八幡宮が創建されたり、惟喬親王が渚の院で歌会を開いたりしたのは平安時代ですが、それ以前から紀氏の土地であったため天田神社付近が紀氏の所領になったり、惟喬親王の別荘がつくられたりしたのかも?

そして継体天皇が樟葉宮で即位したのも紀氏と関係があるような気がしたりもします。

交野天神 拝殿屋根を支える天邪鬼 

交野天神社 拝殿をささえる天邪鬼






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[2019/12/25 21:42] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

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