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湯浅の街並みと角長醤油資料館 『醤油搾り機と搾油器が似ているのは偶然?』 


和歌山県湯浅町 角長醤油資料館


湯浅 大仙堀 
①諸説ある醤油のルーツ


醤油のルーツは醤(ひしお)とされます。
醤とは獣肉・豆・野菜などの食品の塩つけのことです。

一般的な醤油は大豆・麦に麹をまぜ、さらに塩水を加えて発酵させてつくるようです。
なので、醤油は一種の塩漬けだといえるかもしれません。

縄文時代・弥生時代の住居跡から、醤状のものが発掘されています。
ここから、「醤を作る技術は日本独自に発展したものなのか?」とも思えますが
5世紀ごろ中国から製法が伝わったのではないかとする説もあり、詳しいことはわかっていないようです。
その後、奈良時代・平安時代などの文献にも醤は登場します。

湯浅 醤油醸造会社

さきほど述べたように醤とは食品の塩漬けのことです。
これをルーツとして醤油は生まれるわけですが、醤油そのものが作られるようになったのはいつなのでしょうか。
こちらもいくつかの説があるようです。
a鎌倉時代、紀州由良の興国寺の僧・心地覚心が径山寺(金山寺)味噌の製法を人々に教えたが、このとき作り方を誤まって偶然醤油ができた。
13世紀ごろ、南宋の金山寺で金山寺味噌がつくられており、紀州由良の興国寺の僧・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌が作られるようになった。
さらに金山寺味噌の溜(たまり)を用いて醤油が作られるようになった。
500年ごろに記された「斉民要術」に味噌に似た豆醤の製法と、豆醤から液体調味料「清醤」が作られていたことが記されており、中国の後漢で醤油のようなものが作られていたことがわかる。
これが日本に伝来した。

a・bの説に関連するもので、湯浅醤油有限会社の社長さんのブログにこんなことが書いてあります。

「当時の日本人はみんな中国大陸から色々な文化を学んでいました。
かねてより宋に憧れを抱いていた実朝。
1216年(健保4年)に宋の工人である陳和卿とか対面した際に、陳は実朝の前世が医王山の長老であるとと発言しました。
そして、それは実朝の体験した夢告と重なりました。
実朝の宋への思いは急速に膨らんでいき、渡宋を決意して家臣の葛山景倫(実朝の死後は、願生)に唐船を建造させています。(和歌山県由良町)

その後、鶴岡八幡宮にて甥の公暁により暗殺され、28歳という短い生涯を終えました。
実朝の宋の雁蕩山へ埋葬して欲しいという生前の願いを叶えるため、実母である北条政子が願生に宋で実朝の分骨をしてくれないかと依頼をします。
同じく近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、高野山にて供養に務めていた。
しかし、依頼を受けた願生は高齢だったため、その依頼を同じく高野山の若き僧であった心地覚心へと引き継いで渡宋を援助します。
そして宋に渡った心地覚心が修行したお寺が径山寺、そして金山寺だったのです。
ここで、金山寺味噌の製法を伝授され、
帰国後 和歌山県由良の興国寺(湯浅町から一山越えた村町)に入り布教活動を初め、
金山寺味噌を伝えていきました。」


https://ameblo.jp/yuasasyouyu/entry-12396789318.htmlより引用。

これらのほかに、縄文時代から日本で醤が作られており、日本国内において醤油の製法が確立したという可能性もあるかもしれません。

私には何が正しいのかわかりませーんw。

②醤油搾り機

資料館に男柱と醤油搾り機が展示されていました。

全長5mほどもあるかな?
大変大きなもので、展示品がぎっしり陳列された資料館の館内ではカメラのレンズにおさまりきらない!

男柱と醤油搾り機 

↑ 写真向かって左のイチョウの葉のような柱をしているのが男柱。醤油を絞るのに大変な力がかかるので、地下に2mほども埋めてあるのだとか。

角長醤油資料館 締木

↑ 男木から垂直に伸びる長い棒は締木と呼ばれています。これだけしかレンズにおさめきれなかった。
向かって右方向にまだ伸びていますよ。


醤油搾り機
  
↑ 長木の向かって右端はこんな感じになっています。

③構造が似ている。醤油搾り機と搾油器

以前にこの醤油搾り木と似たようなものを見たような?
そうそう、離宮八幡宮の説明板に描かれていた油搾り器・長木と構造がほぼ同じじゃないですか?。

長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。

もう一度、油搾り木の写真を見てみましょう。

醤油搾り機

醤油搾り機の締木にも縄が巻き付けられています。
ただし、これは搾油器のように棒を押し下げるためのものではなく、その逆で棒を持ち上げるためのものです。
そして写真下に移っている石で棒を押し下げて醤油を搾ります。
写真では石はひとつですが、実際には10個ほど用いたそうです。
 
④搾油器とろくろ


さらに搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ていると私は思いました。


木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削ります。

⑤搾油器・醤油搾り機を発明したのは惟喬親王?


上の絵に「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は平安時代の人物で、彼が巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw
ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、油搾り器・長木は貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の
離宮八幡宮の神官が神示を受けて発明したと伝わります。

搾油器を発明した神官とは惟喬親王のことではないかと私は考えています。

その理由は次のとおり。

a.搾油器の構造はろくろに似ており、ろくろは惟喬親王が発明したとする伝説がある。

b.離宮八幡宮は石清水八幡宮と関係が深い神社だが、石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲だった。
日本では先祖の霊は子孫が祀るべきと考えられており、惟喬親王の母親は紀静子だった。
石清水八幡宮や離宮八幡宮は惟喬親王を祀る神社ではないかとも考えられる。

c.惟喬親王の生没年は844~897で、搾油器が発明されたのは859~877年なので、時代があう。

麹室 

角長醤油資料館 麹室

角長醤油資料館 麹室 

角長醤油資料館 麹室の中

⑥醤油搾り機を発明したのは惟喬親王?

さらに醤油搾り機は油搾り器と構造がほとんど同じです。
油を搾るのも醤油を搾るのも原理は同じなので似たような構造になるのかもしれませんね。

だけど、湯浅が和歌山県にあるということがひっかかります。
和歌山県はかつては紀州と呼ばれ、紀氏の本拠地でした。

そして、ろくろを発明した惟喬親王の母親は紀静子で、紀名虎の娘でした。
もしかして、醤油搾り機を発明したのも惟喬親王であると信じられていたなんてことはないでしょうか。

油は入っていないのになぜ醤油と書くのか?
それは搾油と関連づけられたためではないか?
なんていうのはあまりに短絡的かw。
ちなみに古代中国には「油油」という言葉があり、「おもむろに流れる様」を表す言葉であったので、とろりとした液体という意味で醤油と記したのではないかと言われています。

醤油資料館 こしき

角長醤油資料館 平釜とこしき

角長醤油資料館 風選 
角長醤油資料館 風選



醤油資料館 小麦ひき割り機 
角長醤油資料館 小麦ひき割り機

醤油資料館 仕込み桶 

角長醤油資料館 仕込桶

醤油資料館 帳場 
角長醤油資料館 帳場 醤油ではなく醤湯と記されていますね。

角長 
角長さん

角長 醤油樽 
角長さん

湯浅 麹屋 
麹屋さん

角長2 
角長さん

湯浅 大仙堀 夜景 
大仙堀 夜景

 

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[2019/12/14 15:52] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

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