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甚風呂(銭湯跡歴史資料館) 『三助はなぜご祝儀を受け取っていたのか?』 


 和歌山県有田郡湯浅町 甚風呂(銭湯跡歴史資料館)


甚風呂 
凝ったデザインが目をひきますね。これは何の建物でしょう?

甚風呂2 
銭湯でした。甚風呂と書いたのれんがかかっています。(銭湯跡歴史資料館)

①湯女
中世、有馬温泉にはではあかすりや髪すきをする女性がおり、湯女(ゆな)と呼ばれていました。
江戸時代初期になると、銭湯に湯女の女性が登場し、売春なども行うようになりました。
そのため江戸幕府はしばしば禁止令を出し、1657年には湯女は吉原遊郭のみでの営業に限定されました。

 甚風呂 玄関 下駄入れ

のれんをくぐるとこんな感じ。大きな樽は傘立てでしょうか。

甚風呂 番台 
番台。「こんばんはー。大人二人、子供二人ね。」「おおきによ~。」

②三助

湯女が禁止されると、三助とよばれる男性が銭湯に登場しました。
風呂代のほかに、流し代を支払うと糠袋で客の背中を流してくれるのです。

越中(えっちゅう)(富山県)、越後(えちご)(新潟県)の出身者が多かったそうです。

Sansuke

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sansuke.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/Sansuke.jpgよりお借りしました。

上はジョルジュ・ビゴーというフランスの画家・漫画家が描いた日本の三助です。

甚風呂 男風呂 
男湯。向かって左は大正15年につくられた深い浴槽で立って入ります。タイル張りのほうが昭和に作られた浴槽です。

④三助はご祝儀を受け取っていた。

https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-092-08-04-G252.html
上記サイトには次のように記されています。

「三助は、男湯でも女湯でも出入り自由で、客が湯からあがると、糠袋(ぬかぶくろ)で背中から腕をよくこすり、湯をかけて流し、軽くマッサージして、2~3度「パンパン」と景気よく背中をたたく。これが気持ちよかったようで、この音で祝儀の額が違った。町芸者などは、男前で手際のよい三助にはずいぶんと祝儀をはずんだという。」

祝儀という言葉がでてきますね。祝儀について、ウィキペディアは次のように記しています。

1.慶事(喜ばしい時)などの祝意やその互助活動の手間に対する謝意を表すために贈る金品のこと。
2.弔事などのお見舞いやその互助活動の手間に対する謝意は不祝儀(ぶしゅうぎ)という。
3.興行や遊興を提供する者に対し送られる謝意としての金品で、チップの様な物とする向きもある。
日本では法律上は不労所得だが、欧米では所得であることが多い。
また、意味合いにおいても日本独特のハレとケに由来するとも言われる。
具体的には力士に対し健闘を称えたり芸妓の技芸や旅館の仲居の接客に対し、非日常(ハレ)を演出してくれる事に対する感謝でもある。
4.景気付けの一環として商取引やその生業に従事する人々の感謝や発奮を促す行為として高値で取引したり、金品を贈る行為。
具体的には好事家や趣味人が、難度が高い特殊な物品の作製を依頼した時などに、携わる技術者(職人)に景気付けに渡す事もある。
5.賭け事などで期待値を高め、遊興にメリハリを付け作業対効果を簡単に上げる為や、難しい手(役)を作った事に対する祝意である。一般的には麻雀などで良く知られる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9D%E5%84%80 より引用

三助が受け取るご祝儀は3・4にあたりそうです。
背中を流して背中をパンパンと叩く行為は、単なるサービスではなく一種の興行、というよりめでたい行事のような意味合いをもっていたのかもしれませんね。

甚風呂 女風呂 

女湯。

⑤ 三助という職業名の由来

三助という職業名の由来について調べてみると、いくつかでてきます。

a.三助のメインの仕事は、番頭でしたが、そのほか釜焚き(湯を沸かす)、背中流し、風呂掃除と三役をこなすため。
b.三助の「三」は炊爨(すいさん)の「さん」。
もともと商家・町屋の下男の通り名であり、下女を「おさん」とも言った。
しだいに風呂屋の男性使用人をさす言葉になった。
c.奈良時代、光明皇后が浴室を建設して自ら病人の体を洗った。光明皇后を三人の内侍(ないしのすけ)が助けた。彼女らは「三典(サンスケ)」と呼ばれた。
※内侍・・・内侍司(後宮)の次官(女官)

甚風呂 洗い場 
洗い場。

⑥湯女のルーツは光明皇后だった?

cに関連する、次のような伝説が伝えられています。

光明皇后は法華寺に浴室を建立し、千人の民の汚れを洗い流そうと願を立てました。
千人目は膿のある病人で、病人は皇后に『膿を口で吸い出してほしい』と頼みましだ。
皇后が病人の膿に唇を近づけたとたん、病人は阿閦如来になりました。 


膿のある病人とは天然痘のことだと思います。
で、貧乏神はいかにも貧乏そうな姿をしていますね。
天然痘をはやらせる神は天然痘を患った姿をしていると考えられていたのではないでしょうか。

そして光明皇后は天然痘を流行らせる神をたいへん恐れていたのではないかと思います。

729年、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、長屋王が謀反を企てているとでっちあげ、長屋王を自殺に追い込みました。(長屋王の変)
長屋王を廃した藤原四兄弟は妹の光明子(光明皇后)を人臣初の皇后とすることに成功します。
しかし737年、天然痘が流行り藤原四兄弟は次々に天然痘にかかって死亡してしまいました。
そしてそれらは長屋王の怨霊の祟りだと噂されたのです。

光明皇后は「次に長屋王の怨霊の祟り天然痘になるのは自分だ」と考えたことでしょう。
そう、膿のある病人とは天然痘をはやらせる神であり、長屋王の怨霊だと私は思うのです。

そして光明皇后は長屋王の怨霊の体を洗うことで、怨霊の穢れを落とし、結果、天然痘をもたらす長屋王の怨霊は人々にご利益をもたらす阿閦如来に転じたと、そういう話だと思います。

光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録がありますが、このような福祉施設を作ったのは、長屋王の怨霊からのがれるため、民に施しを与えようという気持ちからではないかと思います。

法華寺には浴室(からぶろ)があり、光明皇后が建てたと言われていますが、事実かどうかわかりません。
光明皇后が病人の体を洗ったというのはさすがに作り話だと思います。

しかし、伝説上では湯女のルーツは光明皇后といえるかもしれません。

甚風呂 シャワー 

⑦光明皇后と同様の伝説が有馬温泉にも。

こんな伝説もあります。

行基は旅の途中で出会った病人を有馬温泉に連れていきました。
病人は「温泉では私の皮膚病は治らないので、舐めてくれないか」と行基に頼みました。
行基はためらうことなく、膿んで異臭のする病人の肌を舐めました。
すると病人の肌は金色に輝いて薬師如来になりました。


ほとんど光明皇后と同じ伝説ということは、行基が出会った病人も長屋王の怨霊だと思われます。

光明皇后の生没年は701~760年、行基の生没年は668~749年。
そして長屋王の変(729年)で自殺においこまれた長屋王の生没年は676またが684~729年。
3人は同時代の人物なのです。

甚風呂 蛇口 

⑧三助は浄めの儀式を行っていた?

そして中世の有馬温泉には湯女がいたのでしたね。
長屋王の怨霊の体をあらったという伝説が残る有馬温泉になぜ湯女がいたのでしょう?
湯女たちは、長屋王の怨霊の穢れを祓った光明皇后の分身としてそこにいたのではないでしょうか?
つまり、当時の風呂や温泉は単なる衛生施設ではなく、信仰にもとづく呪いの場としての意味合いもあったのではないか、ということです。

三助がご祝儀を受け取っていたのも、単なるあかすりではなく、宗教的な浄めの儀式であると考えられていたからだったりして?

甚風呂 蛇口3 

甚風呂 蛇口2 

‌-甚風呂 洗面器 

甚風呂 洗面器2 

甚風呂 洗面台 

甚風呂 マッサージ器 

お風呂あがりはマッサージ機でリラックス♪

甚風呂 これは何かな

甚風呂 焚口 

銭湯の壁の裏側にある焚口。防火のため壁はレンガになっています。





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[2019/12/11 11:39] 和歌山 | TB(0) | CM(0)

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