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猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その②』 


京都府綴喜郡宇治田原町 猿丸神社
2019年12月1日 撮影


猿丸神社 拝殿 
猿丸神社 拝殿

猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その①』   よりつづきます~


⑧黒鬼になった猿丸太夫と大友黒主

前回の記事①に、古今和歌集真名序に「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也(大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である)」
と記されていると書きました。

一般にこれは歌風について記されたものだと考えられていますが、私はそうではないと考えていました。

百人一首で猿丸太夫は5番で、その次の6番は大伴家持です。(百人一首のそれぞれの歌には1~100までの番号がふられています。)

百人一首は藤原定家が撰んだものですが、定家は古今和歌集真名序の「大友黒主之哥、古猿丸大夫之次也」を受けて、猿丸太夫の次に大伴家持を持ってきたのではないかと私は考えました。

そう、つまり大友黒主とは大伴家持のことではないかと考えたのです。

そう考えた理由は古今和歌集真名序だけではなく、ほかにも次のような理由がありました。

a大友黒主と大伴家持はよく似た歌を詠んでいる。

白浪のよするいそまをこぐ舟のかぢとりあへぬ恋もするかな/大友黒主
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないように、自分を抑えることのできない恋をすることだよ。)

白浪の寄する磯廻を榜ぐ船の楫とる間なく思ほえし君/大伴家持
(白波の寄せる磯から磯へと漕ぐ船が楫をうまく操れないようにあなたのことを思っています。)
b.大友黒主は大伴黒主と記されることもある。
こちらのサイトでは大伴黒主となっている。→ https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kuronusi.html
c大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座したとして、死後、墓から死体が掘り出されて子孫とともに流罪となっている。
大伴家持の死体は腐敗し、蛆がたかったような状態であったのではないだろうか。

真名序に『(大友黒主は)頗る逸興ありて、体甚だ鄙し。』とあるが、逸興とは「死体が掘り出されたこと」、『鄙し』は『死体が腐って卑しい」という意味ではないか。
dhttp://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/itai.htm
上記サイトによれば、死体は次のように変化するという。

腹部が淡青藍色に変色(青鬼)
   ↓
腐敗ガスによって膨らみ巨人化。暗赤褐色に変色。(赤鬼)
   ↓
.乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)
   ↓
骨が露出

鬼という漢字は死者の魂をあらわすものだとされる。
大伴黒主という名前は、家持の死体が黒鬼のような状態になっていたところからつけられたのではないか。

下に記した奈良豆比古神社の伝説は、弓削浄人は能・翁の創始者であると読めます。

志貴皇子(天智天皇の皇子)の第二皇子である春日王(田原太子)はハンセン病を患い、奈良坂の庵で療養していた。
春日王の二人の息子、浄人王と安貴王(秋王)は心をこめて春日王の看病をした。
ある日、兄の浄人王は春日大社で神楽をって、父の病気平癒を祈った。
そのかいあって春日王の病気は快方に向かった。
桓武天皇はこの兄弟の孝行を褒め称え、浄人王に「弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」の名と位を与えて、奈良坂の春日宮の神主とした。 (※浄人王は臣籍降下して弓削浄人となったという意味では?)
のちに志貴皇子の皇子である光仁天皇が即位すると、志貴皇子は光仁天皇より『田原天皇』と追尊された。
田原天皇はまた春日宮天皇とも呼ばれましたが、これは奈良坂に住んだ春日王と関係があるのかもしれない。


その翁の三番叟は黒式尉といって黒い面をつけて舞います。

八坂神社 翁 黒式尉

八坂神社 翁 三番叟

そして三番叟を舞う彫刻や狂言が残されています。

新日吉神社 猿のレリーフ 

新日吉神社 レリーフ 三番叟と同じ烏帽子をかぶり同じ鈴と扇をもっている。

奈良豆比古神社の伝説は、弓削浄人が翁舞のルーツであると言っているように思えますが
翁は翁(白式尉)・千歳・三番叟(黒式尉)3つの舞から構成されており、その中でも三番叟(黒式尉)と弓削浄人(=猿丸太夫?)は関係が深いように思えます。

そして黒式尉(三番叟)が黒い面をつけているのは、dの「乾燥。黒色に変色。腐敗汁をだして融解。(黒鬼)」の状態ではないかとも考えられます。

つまり、大伴家持(大友黒主)も弓削浄人(猿丸太夫=三番叟)もdの黒鬼状態になったのですが、
時代順に並べると弓削浄人(猿丸太夫)が先で、大伴家持(大友黒主)が次です。

それで真名序は「大友黒主の歌は古の猿丸太夫の次である」と記しているのかも?

猿丸神社 狛猿  

猿丸神社 狛猿 これも三番叟のようにみえますね。

⑨下野国にのこる猿丸伝説

また猿丸伝説は日光にも伝えられています。

あるとき下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が神域をめぐって争った。
このとき、鹿島明神のアドバイスを得て、女体権現は鹿の姿となってあらわれた。
そして、小野に住む弓の名手で朝日長者の孫の小野猿丸(猿丸太夫)を呼び、その加勢によって勝利した。
こうして猿と鹿は下野国都賀郡日光で住むことを赦され、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神になった。
下野国都賀郡・日光二荒山神社の神職・小野氏はこの「猿丸」を祖とするという。


大谷川より男体山・女峰山を望む 
大谷川より男体山・女峰山を望む 女体権現とは女峰山を神格化した神だと思います。

弥生祭 花家体 門前にて

二荒山神社

日光は下野国にありました。

下野国は弓削道鏡が流罪となったところでしたね。
もしかしたら猿丸太夫とはひとりではなく弓削浄人、弓削兄弟のことをさしているのかもしれません。

そのように考えると、なぜ日光に猿丸太夫の伝説があるのかの説明がつくと思います。

猿丸太夫が弓の名手とあり、弓を製作する弓削部を統率した弓削氏をにおわせているようにも思えます。

また下野国河内郡とありますが、弓削氏の本拠地は河内国です。河内郡という地名は河内国からきているのかも?

猿丸神社 鳥居 

猿丸神社

⑨志貴皇子と春日王は同一人物だった?

⑧で奈良豆比古神社の伝説についてお話ししましたが、『別冊太陽・梅原猛の世界(平凡社)』によれば、地元の語り部・松岡嘉平さんはこれとは別の語りを伝承しておられるとのことです。

志貴皇子は限りなく天皇に近い方だった。
そのため、神に祈るときにも左大臣・右大臣がつきそった。
赤い衣装は天皇の印である。
志貴皇子はハンセン病を患い、病が治りますようにと毎日神に祈った。
するとぽろりと面がとれ、皇子は元通りの美しい顔となり、病は面に移っていた。
志貴皇子がつけていたのは翁の面だった。
左大臣・右大臣も神に直接対面するのは恐れ多いと翁の面をつけていた。
志貴皇子は病がなおったお礼に再び翁の面をつけて舞を舞った。
これが翁舞のはじめである。
のちに志貴皇子は第二皇子の春日王とともに奈良津彦神の社に祀られた。


ハンセン病を患ったのはオレンジ色で示した⑧の伝説では志貴皇子の子の春日王となっていますが⑨の伝説では志貴皇子となっています。

春日王は田原太子とも呼ばれており、志貴皇子は田原天皇、春日宮天皇と呼ばれていました。
春日王と志貴皇子は同じ名前で呼ばれていたということになります。
皇族でこのようなケースは他に例がないと思います。
春日王と志貴皇子は同一人物なのではないでしょうか。

奈良豆比古神社 翁舞 

奈良豆比古神社 翁舞

⑩志貴皇子暗殺説

奈良にある百毫寺は志貴皇子の邸宅跡と伝わり、境内にはたくさんの萩が植えられています。

百毫寺 萩2 
白毫寺

境内には万葉歌碑が建てられています。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)


百毫寺 万葉歌碑 
笠金村という人が志貴皇子の死を悼んで詠んだ晩歌です。

本のタイトルや著者名を忘れてしまったのですが(すいません!)
以前図書館で借りた本に「志貴皇子暗殺説」について記されていました。
その内容は次のようなものでした。

日本続記や類聚三代格によれば、志貴皇子は716年に薨去したとあるが、万葉集の詞書では志貴皇子の薨去年は715年となっている。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく。)

この歌は志貴皇子が人知れず死んだことを思わせる。

また笠金村は 次のような歌も詠んでいる。

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに
(御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。)

こちらの歌は『志貴皇子が死んだのはついこの間のことなのに、野辺道がこんなに荒れているのはなぜなのだ』といぶかっているように思える。
これらの歌から、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたように思われる。
萩は別名を『鹿鳴草』というが、日本書紀に次のような物語がある。

雄鹿が『全身に霜がおりる夢を見た。』と言うと雌鹿が『霜だと思ったのは塩であなたは殺されて塩が振られているのです。』と答えた。
翌朝猟師が雄鹿を射て殺した。
時の人々は『夢占いのとおりになってしまった』と噂した。

謀反の罪で殺された人は塩を振られることがあり、 鹿とは謀反人の象徴なのではないか。

笠金村は「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 」と歌を詠んでいるが、
志貴皇子を野辺の秋萩にたとえており、志貴皇子が謀反人であることを示唆しているように思われる。
のちに志貴皇子の子・白壁王は即位して光仁天皇となっていることから、志貴皇子には正統な皇位継承権があったのではないか。

猿丸神社 歌碑 

猿丸神社歌碑 

⑪鹿が踏み分けているのは楓ではなく秋萩だった?

古今和歌集は読んでいただくとおわかりいただけるのですが、隣あった和歌は同じ語句が用いられています。

たとえば、こんな風です↓

1.年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ/在原元方
2. 袖ひちて むすびし水の こぼれるを 春立つ今日の 風やとくらむ/紀貫之
3.春霞  立てるやいづこ  み吉野の  吉野の山に  雪は降りつつ/よみ人知らず
4.雪の内に  春はきにけり  うぐひすの  こほれる涙  今やとくらむ/二条后


1番の「春は来にけり(春は立春のこと。陰暦では1月2月3月が春だった)は、2番の「春立つ(立春)」につながります。
2番の「春立つ」は3番の「春霞」の春と「立てる」につながります。
3番の「春霞」は4番の「春はきにけり」の春に、「雪はふりつつ」の雪は「雪の内に」の雪につながっていきます。

5.梅が枝に  きゐるうぐひす  春かけて  鳴けども今だ  雪は降りつつ/よみ人知らず
6.春たてば  花とや見らむ  白雪の  かかれる枝に  うぐひすの鳴く/素性法師


4番の「うぐひす」「雪」と同じ語句が5番の歌にもありますね。
5番に「梅が枝」とあるので、6番の「花」は「梅の花」を意味しています。
また5番と6番はどちらにも「枝」「うぐひす」「雪」「鳴く(鳴けども)」という同じ語句があって、繋がっています。

それでは古今和歌集にある「奥山に」の歌は前後の歌とどのようにつながっているのかをみてみましょう。

秋上
214. 山里は 秋こそことに  わびしけれ しかのなくねに めをさましつゝ/忠岑
215.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき/読み人知らず
216  秋はぎに うらびれをれば  あしひきの 山したとよみ 鹿のなくらむ/読み人知らず


214番と215番の歌は「山」「秋」「鹿」「なく」という言葉でつながっていますね。
215番と216番の歌は「秋」「鳴く」「鹿」が同じです。

しかし、「秋」でつながっているとするのではなく、「紅葉」と「秋はぎ」でつながっているとみられています。
つまり、215番の歌に「紅葉」とあるのは楓ではなく、萩の黄葉だということになります。

また『定家八代抄』では次のような順番で歌が掲載されています。

a.下もみぢ かつ散る山の 夕時雨 濡れてや鹿の 独り鳴くらん
b.奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
c.秋萩に うらびれ居れば あしびきの 山下とよみ 鹿の鳴くらん


こちらも古今和歌集と同じように語句で歌と歌がつながっているようです。
(未確認。すいません~。番号もつけられているのかもしれませんが、わからないので、仮にabcとしておきます。)

こちらでもやはりbの歌の「もみぢ」とcの歌の「秋萩」が対応しており、もみぢとは萩の黄葉ということになります。

私は猿丸太夫とは弓削浄人、弓削道鏡ふたりの兄妹の総称ではないかと考えましたが、
ここにもうひとり、兄妹の父親・志貴皇子を加える必要があるかもしれません。
つまり、猿丸太夫とは父親の志貴皇子と志貴皇子の二人の兄弟・弓削浄人、弓削道鏡の総称ではないかということです。
(※『僧綱補任』、『本朝皇胤紹運録』などに道鏡は志貴皇子の子だという説があると記されています。
また奈良豆比古神社の伝説によれば、弓削浄人(浄人王)の父親は志貴皇子の子の春日王となっていますが、
志貴皇子の別名は春日宮天皇・田原天皇、春日王の別名は田原太子で同じ名前なので、志貴皇子と春日王は同一人物ではないかと思います。)

「もみぢ」を『萩の黄葉」と考えれば、「奥山に」の歌は志貴皇子の死を悼んだ次の歌と対応しているように思えます。

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
(高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散るのだろうか。見る人もなく


奈良大文字送り火 

奈良大文字送り火は高円山に点火される。

⑫藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首を志貴皇子作として鑑賞すると・・・

古今和歌集では「奥山に」の歌は詠み人しらずとなっていますが、百人一首では猿丸太夫が詠んだことになっています。

また前回の記事猿丸神社 紅葉 『謎の歌人・猿丸太夫の正体は弓削浄人だった?その①』  ②で、
平安中期の藤原公任が猿丸太夫の代表作として選んだ三首も、猿丸太夫=志貴皇子と考えればぴったりくるように思えます。

●をちこちの たつきもしらぬ 山中に おぼつかなくも 呼子鳥かな
(遠くも近くも見当もつかない山中にたよりなく呼子鳥が鳴いているよ)

これは高円山に葬られた志貴皇子の霊が詠んだ歌のように思えます。

●ひたぐらしの 鳴きつるなへに 日は暮れぬと 見しは山のかげにざりける
(ひぐらしが鳴き始めて日が暮れたと思ったのは勘違いで、本当は山の影に入ったいたのだった)
こちらは志貴皇子の霊が、自らの死を読んだ歌のように思えます。
※暗くなったので夜になったと思っていたが、私は高円山に葬られていたのだった?

●奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき
(深い山の中で 紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋が悲しく思えてくる。)

※私が葬られた高円山の萩の黄葉を踏み分けて鹿が鳴いているのを聞くと、わが身があわれに思えてくることだ?

春日宮天皇陵 
春日宮天皇(志貴皇子)陵へ向かう長い参道


春日宮天皇陵2 
春日宮天皇(志貴皇子)陵

⑭天智天皇が詠むのにふさわしい歌なので天智天皇御製とした

死んだ志貴皇子の霊が和歌を詠んだりできるはずがない、といわれそうなので、それについて説明しておきます。
古には著作権という考え方はありませんでした。
そこで、Aという人が詠んだとするのにふさわしいと考えられる歌の作者をAとする、というようなケースがありました。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあら み わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の小屋のとまがたいそう粗いので、私の着物は露でびっしょり濡れてしまいました。)

この歌は万葉集にはなく、958年ごろに成立した後撰和歌集の中に天智天皇御製として掲載されています。。

万葉集には「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」という読人知らずの歌が掲載されており
その内容から農民が詠んだ歌だと考えられています。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 梅雨にぬれつつ」は「秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露そ置きにける」を改作したものであり、
実際に天智天皇が詠んだ歌ではないが、天智天皇の心を表す歌であるとして後撰和歌集の撰者たちが天智天皇御作として後撰集に掲載したものと考えられています。

詳しくはこちらの記事をお読みください。近江神宮 かるた祭 かるた開きの儀 『秋の田の・・・は埋葬されないわが身を嘆く歌だった?』 

猿丸神社 奉納された瘤のある木 
猿丸神社には瘤のある木がたくさん奉納されていました。

⑮猿丸神社はなぜ瘤取りの神として信仰されているのか?


猿丸神社は瘤取りの神として信仰されており、瘤のある樹木の枝がたくさん奉納されていました。
なぜ猿丸神社は瘤取りの神として信仰されているのでしょうか。

奈良豆比古神社には、春日王または志貴皇子がハンセン病にかかったという伝説があるのでしたね。
ハンセン病になると結節 と呼ばれる瘤ができることがあったそうです。

また瘤はおとが鼓舞に通じますが、鼓舞のもともとの意味は「鼓を打って舞を舞う」ことです。
そこから転じて「大いに励まし気持ちを奮いたたせること」を鼓舞というようになったようです。

八坂神社 翁 白式尉

八坂神社 翁 白式尉 鼓を打って舞う。まさしく鼓舞ですね。


鼓を打って舞を舞うというのは、まさしく猿楽のことです。
そしてその猿楽のルーツともいうべき翁舞は、弓削浄人または志貴皇子がハンセン病治癒を願って行ったものでした。

猿丸太夫=父親の志貴皇子と志貴皇子の二人の兄弟・弓削浄人、弓削道鏡の総称
と考えると、猿丸神社が瘤取りの神として信仰されている理由もとけそうに思えますが、どうでしょう?



奈良豆比古神社 うそぶきの面 

奈良豆比古神社には古い能面が数多く展示されていましたが、その中に額右に瘤のあるうそぶきの面もありました。




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[2019/12/06 15:21] 京都府 | TB(0) | CM(0)

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