奈良県橿原市 藤原宮跡
2009年11月7日 2011年10月15日 撮影
●持統天皇の宮なのになんで藤原宮?奈良県橿原市の藤原宮跡は飛鳥時代に藤原宮があったとされる場所です。
遠くに見えている山は大和三山のひとつ、天の香具山です。
藤原京は大和三山(畝傍山・耳成山・天の香具山)に囲まれた土地に作られました。
その藤原京にあった宮が藤原宮です。
藤原京と書きましたが、藤原京という名前は近代に作られた学術用語なのだそうで、『日本書紀』では「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」となっています。
宮は藤原宮と記述されています。
新益京は690年(持統4年)に着工され、694年(持統8年)に新益京に遷都しています。
完成は704年(慶雲元年)とされています。
藤原宮が作られたのも同時期と考えられます。
タイトルに「藤原宮は藤原氏の宮?」と書きましたが、もちろん藤原氏の宮ではありません。
藤原宮は持統天皇の宮でした。
藤原氏の祖・中臣鎌足は669年、死の間際に天智天皇より『藤原姓』を賜ったとされています。
ということは、藤原宮が作られた当時、藤原氏という臣下が存在していたということになりますが、藤原氏という臣下がいるのに宮を藤原宮と名付けるのって変ではないでしょうか。
まるで藤原氏の宮のように思えるじゃないですか。
●藤原性は鎌足一代に与えられた?これに対して当時藤原氏はいなかったとする説があります。
672年の壬申の乱(大海人皇子vs大友皇子)では中臣氏は大友皇側につきました。
しかし大友皇子は大海人皇子に敗れたため、中臣氏は一時衰退したと考えられています。
壬申の乱後、684年に八色の姓が定められたのですが、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、中臣を名乗っていたのではないかというのです。
鎌足没後、『日本書紀』に再び藤原氏の名前が登場するのは685年のことです。
そこで藤原姓が与えられたのは鎌足一代に対してであり、685年鎌足の遺族に対してあらためて藤原姓が与えられたのではないかというのです。
ううーん、それでもまだ納得できないです。
鎌足一代とはいえ臣下に与えた藤原という名前を天皇の宮の名前にするでしょうか?
大伴氏など、淳和天皇の名前が大伴なので同名であるのをはばかって伴氏に改名しているくらいです。
●藤原氏の初代は鎌足ではなく不比等?藤原不比等は史と記されることもありますが、史部とは記録・文書をつかさどって朝廷に仕えた部民のことです。
日本書記を編纂したのは舎人親王とされていますが、藤原不比等もこれに大きく関わっていると考えられています。
私は鎌足が藤原姓を与えられたというのは不比等の改竄で、本当は不比等の代から藤原を名乗るようになったのではないかと思います。
藤原姓を名乗ることで、藤原宮はまるで藤原氏の宮であるかのような印象を人々に与えることが目的だったのかなあ、と思ったりします。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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