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勝林寺 紅葉 『大原問答を聞いていた聴衆って誰?』 

京都府左京区 勝林寺
2019年11月16日 撮影

勝林院 
①天台声明

勝林院は835年、円仁が創建し、唐で学んだ声明を伝えたとされます。

その後すたれますが、1013年、寂源によって復興され、声明研鑽の地となりました。
大原の声明は「天台声明」「魚山声明」と呼ばれました。

声明とは仏典に節をつけた仏教音楽のことです。

【天台声明】



↑ なに言ってるのかわからないけど、美しいですね。
本堂の中にあるボタンを押すと声明が流れるようなシステムになっていて、声明聞きながら参拝することができますよ。

この天台声明、浄土宗や浄土真宗などの声明の原型なのだそうです。

【浄土声明】



②大原問答


1186年、顕真は法然を勝林寺に招きました。そして僧らは法然に12の難問を投げかけました。(大原問答)

法然が「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」と説いたとき、本尊の阿弥陀如来が光を放ち、法然の正しさを証明しました。
かねてより、この阿弥陀如来は光を放って正しさを証明するため「証拠の阿弥陀」と呼ばれていたのです。

聴衆は「念仏すれば誰でも極楽浄土にいける」ことを知って大喜びし、三日三晩、念仏を唱え続けたということです。

勝林院 本堂 
11月夕方に本堂の扉開けると西日でご本尊が光放っているように見えます。

③三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

三日三晩、念仏を唱え続けた聴衆って誰?

「そりゃー、勝林院の僧侶だろ?」
「いや 『誰でも極楽浄土にいける』ことで喜んだってんだから、村人じゃないのか?坊さんは修行してるから極楽浄土にいけるだろう?」

私は、大原問答を聞いていたのは壇ノ浦の戦いで海に沈んだ平家の亡霊ではないかと思います。

1185年、源氏vs平家の壇ノ浦の戦いがありました。この戦いで平家は敗れ、次々に海に身をなげて亡くなったのです。
建礼門院は安徳天皇を抱いて海に身を投じましたが、とらえられてしまいました。
建礼門院は出家し、大原の寂光院に隠棲して平家一門の菩提を弔いつづけました。
寂光院は勝林院のすぐ近くです。

で、大原問答は壇ノ浦の戦いの翌年の1186年です。

勝林院 鐘楼

④耳なし法一の説話が物語る平家への怨霊信仰

耳なし芳一の話を思い出してください。
大勢の平家の亡霊が成仏できずに、芳一が弾き語る「平家物語」を聞いていたのでしたね。

耳なし芳一は小泉八雲の「怪談」にある話ですが、八雲は1782年の一夕散人(いっせきさんじん)著『臥遊奇談』第二巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」を参考にしたと考えられています。

1782年は1185年の壇ノ浦の戦いから600年ほどのちですが、それ以前から平家の亡霊は人々におそれられていたであろうと想像します。

平安時代には、菅原道真や平将門などの怨霊が恐れられていました。
怨霊とは政治的に不幸な死を迎えたもののことで、天災や疫病の流行は怨霊のしわざでひきおこされると考えられていたのです。
壇ノ浦の戦いで多くの平家の人間が入水自殺し、大量に怨霊が生まれてしまったわけです。
平家の大量死はそれは恐れられたことでしょう。

勝林院2 
⑤平将門を慰霊した時宗の僧侶たち

また、「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土にいける」という考え方は時宗にもありましたが、時宗の僧侶たちは平将門の慰霊に情熱を注いでいるように見えます。
これについては長くなるので、次の記事をお読みください。
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 

法然が開いた浄土宗も時宗同様、怨霊を慰霊するという目的をもっていたのかも?

【おまけ・・・勝林院付近のスナップ】

勝林院付近2 
勝林院付近 
勝林院  
実光院 


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[2019/11/22 22:22] 京都府 | TB(0) | CM(0)

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