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離宮八幡宮 紅葉 『搾油器を発明した神官の正体とは?』 


京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮
2017年11月23日 撮影


離宮八幡宮 外観 
①天王山は女山?


平安時代、清和天皇は夢の中で、「九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へご遷座せよ」というお告げを聞きました。
清和天皇は夢告げに従い、僧・行教に、八幡神の遷座を命じました。
早速行教は宇佐に向かい八幡神を奉じて帰京する途中、山崎の津で夜の山(神降山)に霊光が光るのを見ました。
その地を掘ると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました
こうして859年に「石清水八幡宮」が創祀されました。

その後、石清水八幡宮は山崎から見て淀川の対岸にある男山(八幡市)に移され、山崎の地の八幡宮は名前を変えて呼ばれるようになりました。

http://rikyuhachiman.org/sinryouezu.html
↑ こちらに江戸時代に描かれた離宮八幡宮の絵が掲載されています。
神殿の背後に小高い山が描かれていますが、これが神降山なのでしょう。

現在、離宮八幡宮の北にJR山崎駅があります。
そのさらに北に天王山がありますが、この天王山が神降山なんでしょうか?
天王山の中腹に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ/元山崎天王社)があって、オオヤマツミ・スサノオを祀っていますが
元々の祭神は山崎神・酒解神ということです。

離宮八幡宮の御祭神は、本殿=応神天皇、左殿=酒解大神(さかとけのおおかみ)、別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿=比売三神ということで、自玉手祭来酒解神社と御祭神がかぶっていますので
この天王山が神降山なのかも?(間違っていたら教えてくださーい!)

姫路城は姫山・鷺山に築かれているとのことですが、姫路城の隣には男山があるんですよ。
これと同じように、石清水八幡宮が鎮座しているのは男山ですが、これに対して女山みたいなのがあるのではないかと私は常々思っていました。

もしかして、天王山は女山?



②油祖

貞観年間(859~877年)、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」と呼ばれる搾油器を発明し、荏胡麻(えごま)油(神社仏閣の燈明用油)が作られるようになったと伝わります。
全国にこの製油技術が広まると、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜り、油の専売特許を得ました。
油を商うためには、離宮八幡宮の許状が必要であったそうです。

離宮八幡宮 油祖像 
③油を搾るしくみ
長木の図 
離宮八幡宮 説明板より

向かって右下の短い棒に縄を巻き付けることによって、上部の長い棒を下にさげて力を加え、荏胡麻の油を搾るんですね。
長木 模型

離宮八幡宮 説明板より

写真向かって右の縦についている長い棒は、縄を巻き付ける道具だと思います。
この棒を前後させることによって縄を巻き付けている短い棒を回転させるのでしょう。
工学に詳しい友人に聞いたところ、逆回転防止の歯車がとりつけられているのではないか、とのこと。
長木 説明 
④搾油器とろくろ


この搾油器「長木」は木地師が用いるろくろに似ています。

ろくろ 

木地師の里 ろくろ

どちらも棒にロープが巻き付けられていますね。

木地師資料館 惟喬親王像 

木地師資料館に展示されていた掛け軸


使い方は上の絵のとおり。

ひとりがロープの両端を持って棒を回転させます。
そしてもうひとりが棒の先端に取り付けた刃に木をあてて削るのです。

山崎 油売り 

離宮八幡宮 説明板より

⑤「長木」を発明したのは惟喬親王?

上の絵は木地師資料館に展示されていた掛け軸で、「器地轆轤之祖神 惟喬親王命尊像」と記されていますね。

惟喬親王は巻物が転がるのを見てろくろを発明したという伝説があります。

しかしこの伝説は事実ではありません。
奈良時代に作られたろくろびきの百万塔が残されているからですw

ですが「惟喬親王がろくろを発明した」と人々が信じたことは間違いないでしょう。

そして、先ほどものべたように、離宮八幡宮の神官が発明した搾油器の構造はろくろに似ています。

ずばり、搾油器を発明した離宮八幡宮の神官とは惟喬親王ではないでしょうか。
惟喬親王はろくろを発明したのと同じように、巻物を転がるのを見て搾油器を発明した、と信じられたのでは?

というのは、石清水八幡宮を創建した清和天皇と惟喬親王は異母兄弟なんですよ。

どちらも父親は文徳天皇、清和天皇の母親は藤原良房の娘・明子、惟喬親王の母親は紀名虎の娘・静子です。
文徳天皇は長子の惟喬親王を皇太子につけたかったのです。
しかし、時の権力者は藤原良房。源信はこの藤原良房を憚って、「惟喬親王を皇太子にしたい」という文徳天皇を諫めました。
こうして清和天皇が皇太子についたわけで、二人の間には藤原氏と紀氏の世継争いという因縁があるんです。

山崎 油売り2

離宮八幡宮 説明板より

⑥八幡神は身をひくことで皇位継承をもたらす神

宇佐八幡宮は奈良時代には「道鏡を天皇とするべし」とか「道鏡を天皇にしてはならない」という相反する二つの神託を下しています。
どうやって信託を下したんでしょうね?
巫女に託宣するのかな?

それはわかりませんが、とにかく二つの皇位継承に関する神託をくだしたわけです。

また宇佐八幡宮には天皇即位や国家異変の際に勅使(ちょくし―天皇の使い)が派遣される習慣がありました。
八幡神は皇位継承の神として信仰されていたのでしょう。

で、八幡宮の主祭神である応神天皇は、伊奢沙和気大神(福井県敦賀市の気比神宮の神)と、応神天皇の名前を交換したという話があります。(古事記)

応神天皇は伊奢沙和気大神となって気比神宮に祀られ、神饌として大漁のイルカがお供えされた。
そして伊奢沙和気大神は応神天皇となり、ちゃっかり皇位についたという話のように思えます。
これは政権交代を意味する物語ではないでしょうか。

離宮八幡宮 門

初代神武天皇が東征して畿内入りするよりも早く、ニギハヤヒという神が天下っていたと記紀には記されています。
ニギハヤヒは物部氏の祖神なので、神武以前に物部王朝があったという説があります。

また応神天皇は九州の宇美で生まれ、そこから畿内入りするのですが
そのルートが神武東征ルートと重なるので、同一人物ではないかとする説もあります。

記紀は神武は天皇家の人間で九州から東征してやってきたとしていますが、九州から東征してやってきたのは物部氏だったのかもしれません。

実際の天皇家は九州からではなく福井県敦賀あたりからやってきたのだったりして?

すると応神天皇が皇位継承の神として信仰されているのは、
彼が物部王朝の王であったが、彼が身を引いたため、イザサワケが皇位について政権交代したため、
だとも考えられますね。

そして惟喬親王も身をひくことで、清和天皇の即位をもたらしたと考えられたのではないかと思います。

清和天皇の生没年は850~881年です。
石清水八幡宮が創建された859年、清和天皇はまだ9歳です。
石清水八幡宮の創建には清和天皇の外祖父・藤原良房が関わっていると考えるのが妥当だと思います。

そして藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭ったということではないでしょうか。

日本では先祖の霊は子孫が祭祀するべきとする考え方がありました。
石清水八幡宮の神官は紀氏の世襲です。
このことも、「藤原良房は応神天皇に惟喬親王のイメージを重ねて祭った」という説を裏付けると思います。

離宮八幡宮 神馬 

⑥惟喬親王の水無瀬の離宮

また近所には粟辻神社があって、鍛冶屋の祖神として惟喬親王と在原業平を祀っています。

そして伊勢物語の第八十二段には、こんな話が記されていますよ。

惟喬親王は在原業平や紀有常らの寵臣とともに、水無瀬離宮から交野ケ原へ向かい、渚の院で歌会を開いたと。

水無瀬は惟喬親王ゆかりの地なんですね。
そして、水無瀬は離宮八幡宮から近いです。
離宮八幡宮という名前は、嵯峨天皇の離宮があったところからつけられたといいますが、本当は惟喬親王の離宮があったところからつけられたんだったりして?

 粟辻神社


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