堺祭の大パレードには、全国から七隊もの火縄銃隊がやってくるのです。
これは見逃せない~!
種子島火縄銃保存会種が島火縄銃保存会の方々が発砲するシーンの写真も撮るには撮ったのですが、
ものすごい轟音に体が勝手にびくっと反応してしまい、大きく手振れしてしまいました。大失敗でした~。
今度行くときは耳栓をもって行こう。
以下、にわか知識です。
●八坂金兵衛、娘をポルトガル人に嫁がせて鉄砲の作り方を教わる。1543年、種子島に中国船が漂着しました。
中国船には明人の五峰、ポルトガル人・牟良叔舎」(フランシスコ)、喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ)が乗っていました。
種子島島主・種子島恵時・時尭親子は二人のポルトガル人から鉄砲挺を購入し、刀鍛冶・八板金兵衛に鉄砲を作らせました。
八板金兵衛は娘・若狭をフランシスコに嫁がせて鉄砲の作り方を教えてもらったそうで、八板家系図に次のように記されているそうです。
若狭 1527年生まれる。
1543年、フランシスコに嫁いでポルトガルに渡る。
1544年ポルトガル船がやってきて金兵衛と若狭は再び会うことが出た。
数日後、若狭は大病にかかって死んだと偽って葬式をおこなった。フランシスコは泣きもしなかった。この記述は本当のことなのか、作り話なのかわかりませんが、八板金兵衛が苦労の末、鉄砲を作り上げたことは事実でしょう。
堺の橘屋又三郎と、紀州の津田算長が種子島より鉄砲を故郷へ持ち帰ったことで、鉄砲は瞬く間に全国に広まりました。
堺火縄銃保存会 と 関ヶ原(合成)
橘屋又三郎は種子島に数年とどまって鉄砲の製造法を学び、堺で鉄砲の製造を始め、「鉄炮又」と呼ばれました。
また根来の芝辻清右衛門が後に堺に移住し、堺は鉄砲の産地へと発展していきました。
根来鉄砲隊 と 根来寺(合成)津田算長は紀伊国吐前城主であり、根来寺僧兵の長でした。また「津田流砲術」の祖でもあります。
紀州に戻った津田算長は芝辻清右衛門に鉄砲をつくらせました。
根来寺の僧兵は鉄砲で武装しており根来衆と呼ばれました。
根来鉄砲隊が僧兵の姿をしているのは、このためなのですね。
紀州雑賀(さいか)鉄砲衆 と 和歌山城 (合成)雑賀衆は紀伊国北西部の五つの地域(五組・五搦)から成る一揆集団です。
根来衆と同様、鉄砲で武装し、織田信長の第一次紀州征伐、豊臣秀吉の第二次紀州征伐に抵抗しました。
しかし秀吉に根来寺は焼き討ちにされ、雑賀衆は壊滅させられました。
彦根鉄砲隊 と 彦根城 (合成)
向かって右は天衝脇立、井伊直政かな?
向かって左は三日月がついています。伊達政宗?
戦国時代の戦に鉄砲はかかせないものとなっていました。
岩国藩鉄砲隊岩国藩は現在の山口県岩国市あたりにあった藩です。
岩国藩に伝えられた石田流砲術の継承につとめておられます。
火縄銃は長州筒と呼ばれるものだそうです。
会津新選組銃隊 と 金戒光明寺 (合成)
※金戒光明寺は会津藩の本陣でした。幕末、京都では尊王攘夷派の浪士たちがテロを起こすなど治安が悪化していました。
そこで幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職としました。
その配下で京都の警備活動を行ったのが新選組です。
会津藩と新選組は戊申戦争(新政府軍vs旧幕府軍/1868年 - 1869年)で旧幕府軍に従って戦いましたが苦戦したようです。
その理由として会津藩が最新式の洋式銃を十分に用意できなかったことがあげられます。
写真の新撰組隊士は火縄銃を撃っていますが、幕末に火縄銃は時代遅れだったのです。
しかし戊辰戦争で火縄銃を用いた藩もあったという記述を読みました。
会津は戊辰戦争で火縄銃を用いたのでしょうか?
ともかく幕府軍は敗戦し、これにともなって新選組も解散しました。
ちょっと合成が不自然なのもありますね。すいません~。
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