大阪府枚方市 日置天神社
2019年10月20日 撮影
日置天神社の秋祭のはじまり、はじまり~♪①交野ケ原に残る惟喬親王の伝説
前回、天田神社の由緒書に次のように書いてあるということをお話ししました。
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。」
「平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、」とありますが、その宮廷貴族の中に紀有常、在原業平らがいます。
彼らは惟喬(これたか)親王の寵臣であり、惟喬親王のお供をして狩にやってきて、歌会を開いたという話が伊勢物語などに記されています。
大阪府交野市・枚方市あたりはかつては交野ケ原と呼ばれていました。
そして枚方市には惟喬親王の伝説がいくつか残されています。
↑
渚の院です。(保育園の隣にあって鐘楼が残っているだけです。)
ここで惟喬親王・紀有常・在原業平らは歌会を開きました。
↑ 上は枚方市茄子作南町にある本尊掛松跡。
1321年、融通念仏宗中興の法明上人が男山八幡(石清水八幡宮)の神よりお告げを受けて、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より男山へ向かっていたところ、ここで、同じ夢告げを受けた八幡宮の使者に出会い、十一尊天得如来画像を授けられたと伝えられます。
この茄子作という地名の由来について、ここで惟喬親王の愛鷹につける鈴を作ったことから名鈴となり、それがなまって茄子作りになったといわれています。
そしてここ、日置天神には次のような伝説が伝えられています。
惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹のの姿が見えなくなったので、日没を惜しんで「日を止め置かせ給え」と天神に祈願しました。

日置天神社には8台ものだんぢりが残されていて、秋祭に公開されています。
そのうち1台は氏子さんたちによって町を引き回されます。
氏子さん方に、いろいろなことを教えていただきました。ありがとうございました。
だんじりの彫刻については、「わからない」ということでした。
引き回されるだんじりの側面に、鷹の彫刻が。惟喬親王の愛鷹にちなむものでしょうか?
正面はこんな感じです。菊の彫刻が惟喬親王を思わせます。
大皇器地祖神社は木地師の祖として惟喬親王を祀っていますが、神紋が十六菊なんですよね。
この彫刻の花びら数えてみたら20弁で、数がちがいますがw
↑ これはひきまわさない別のだんじりですが、巻物を持っているのが、惟喬親王を思わせます。
というのは、惟喬親王は巻物が転がるのを見て、木地師が用いるろくろを発明したという伝説があるのです。
巻物持っているのは女性ですが、私は小野小町の正体は小野宮と呼ばれた惟喬親王のことだと考えているので!
詳しくは別ブログの次のシリーズをお読みください。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-category-15.html全部読む時間がない方はこちらを読んでいただけると嬉しいです♬
小野小町は男だった⑬ 『小野小町は男だった!』 小野小町は男だった⑯(最終回) 『わがみよにふるながめせしまに』 
さあ、だんじりが出発しますよ~。
ながらくだんじりの引き回しは行われていなかったとのことですが、数年前から復活したそうです。嬉しいね。
②石清水八幡宮は惟喬親王を祀る神社?天田神社 秋祭 『肩野物部氏の土地が石清水八幡宮の所領だったのはなぜ?』 ↑ こちらの記事にはこんなことを書きました。
a.天田神社あたり(森地区)は石清水八幡宮の所領であった。ことがわかりました。
b.森地区の氏子さん方は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として奉仕もされている。
c.石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる?
石清水八幡宮ー応神天皇を祀るーーーーーーーー物部氏が祭祀する神社
交野ケ原(天田神社も交野ケ原にあった)―――肩野物部氏が住んでいた。
しかし、cは間違いである可能性が大であることに気がつきました。(すいません!)
石清水八幡宮と交野ケ原は物部氏でつながる、と書きましたが、
石清水八幡宮は紀氏と関係の深い神社なのでした。
以前の記事に書いているのに、忘れていました(汗)
永観堂(禅林寺) 雪 『惟喬親王のおもかげを映す阿弥陀如来』 ↑こちらの記事に書いたのですが、石清水八幡宮は清和天皇の勅願によって創建されたと伝わります。
そしてその石清水八幡宮の神主は代々紀氏の世襲なのです。
清和天皇と紀氏はあまり折り合いがよさそうには思われません。
実は清和天皇は惟喬親王の異母弟なんですね。
文徳天皇は紀静子との間に惟喬親王を、藤原明子との間に惟仁親王をもうけていました。
文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしたいと考えて源信に相談をしますが、源信は権力者である藤原明子の父・藤原良房を憚って天皇をいさめたそうです。
こうして生まれたばかりの惟仁親王が皇太子となりました。
この惟仁親王がのちの清和天皇です。
日本では古より先祖の霊はその子孫が祭祀または供養するべき、と考えられていました。
石清水八幡宮の神主が紀氏なのは、石清水八幡宮が政治的に不遇であった惟喬親王の霊を祭る神社だからではないか、と私は思います。(だから、そう思ってるなら忘れるなって~)
③八幡神は皇位継承の神託を下す神?八幡神とは応神天皇・比咩大神・神功皇后の三柱の総称です。
神功皇后は和風諡号をオキナガタラシヒメといい、タラシ王朝(物部王朝?)の14代仲哀天皇の皇后です。
そして応神天皇の父親は仲哀天皇、母親は神功皇后なのですが
イザサワケという気比神社の神と名前を交換したという話などがあり、どうも応神天皇あたりで政権交代してるっぽく感じます。
応神天皇は、その身をひくことで、別の人物の皇位継承をもたらした神なのではないでしょうか。
奈良時代に宇佐八幡宮神託事件があり、「道鏡を皇位につけるべし」とか、「道鏡を皇位につけてはいけない」などと神託を下しています。
相反する神託ですが、皇位継承に関する神託であることは共通しています。
惟喬親王はその身をひくことで、清和天皇に皇位継承をもたらしました。
石清水八幡宮の御祭神・八幡神と惟喬親王はイメージを重ねられており、惟喬親王は紀氏の血筋の親王なので、石清水八幡宮は紀氏が祭祀するべきであると考えられたのではないでしょうか。
すると、物部氏の神を祀る交野市の天田神社付近が紀氏が祭祀する石清水八幡宮の所領であったのはなぜなのか、もういちど原点に戻って考える必要がありそうです。(汗)
それについては次回。
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