山の辺の道の旅は、第10代崇神天皇の時代を旅することでもあります。
●崇神天皇陵山の辺の道沿いに行燈山古墳があります。
行燈山古墳は第10代崇神天皇陵に治定されています。
古墳を囲む周濠のほとりに立つと西の方向に二上山が見えます。
崇神天皇陵(行灯山古墳)
●志貴御県坐神社(磯城瑞籬宮跡)崇神天皇3年、崇神天皇は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。
志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋)が磯城瑞籬宮があった場所だとされています。
志貴御県坐神社●檜原神社(笠縫邑?)崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。
また人民の中には背くものがありました。 そのため天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。
(↑あとで出てくるので覚えておいてくださいね。)
天照大神は豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)で祀らせました。
笠縫邑は大神神社の摂社、檜原神社とする説が有力です。
檜原神社
●大和神社 長岳寺(長岡岬?)倭大国魂神は渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせました。
大和神社がこれに該当すると考えられています。
大和神社長岡岬は現在の桜井市穴師・箸中の付近、または現在の長岳寺付近ではないかとされています。
その後、奈良県天理市新泉町星山の現在地に移りました。
長岳寺 渟名城入媛命は髪が抜け落ち体がやせ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。
●大神神社崇神天皇7年、崇神天皇の叔母・倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り、次のように託宣しました。
「いま疫病が流行っているのは私の祟りである。
私の子・大田田根子に私を祀せ、市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祭らせればる神主とすれば、疫病の流行はおさまるだろう。」
そこで託宣のとおりにしたところ、疫病はおさまりました。
大田田根子が大物主神を祀った神社が大神神社です。
大神神社●箸墓古墳
倭迹迹日百襲姫命はのちに大物主神の妻となりましたが、大物主神の本性が蛇であることを知り、驚いて尻餅をついた拍子に箸でホトをついて死んでしまいました。
倭迹迹日百襲姫命は箸墓古墳に葬られました。
箸墓古墳
●箸墓古墳は卑弥呼の墓?倭迹迹日百襲姫命を祀る箸墓古墳は魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかと言われています。
また、籠神社で発見された系図に、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の9代目の孫に日女命(ひめのみこと)とあり、
脇に、『またの名を倭迹迹日百襲姫命』と記されていました。
卑弥呼とはこの日女命の音に漢字をあてたものだとする説があります。
とすれば、卑弥呼とは日女命のことであり、倭迹迹日百襲姫命のことだということになります。
箸墓の大きさは魏志倭人伝に記された卑弥呼の墓と大きさがぴったりあっています。
魏志倭人伝では卑弥呼の墓は円墳としています。
一方、箸墓は前方後円墳ですが、もともとは円墳であったものに後から前方部を付け足した可能性が浮上しています。
●卑弥呼の男弟は大国魂神(=大物主神)?卑弥呼には男弟があったと魏志倭人伝には記されています。
崇神天皇を卑弥呼の男弟とする説がありますが、私の考えは違います。
私はは倭大国魂神=大物主神は同一神で、倭大国魂神=大物主神が卑弥呼の男弟だと思います。
●古代、兄弟姉妹婚はスタンダードだった?大物主神は倭迹迹日百襲姫命と結婚しています。
姉弟なのに結婚するのはおかしいと考えるのは現代の感覚です。
古には血の純潔を守るため、同腹の兄弟姉妹婚はスタンダードだったとする説があります。
記紀神話にも兄弟姉妹婚の話はたくさんあります。
イザナギとイザナミ、天照大神とスサノオ、アシナヅチとテナヅチなど兄弟姉妹婚です。
●卑弥呼の死後立った男王は卑弥呼の男弟ではなく、狗奴国の男王だった?魏志倭人伝は卑弥呼の死後「男の王が立つが国が混乱し千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「台与」13歳を王に立てると国中おさまった」としています。
これは●
檜原神社(笠縫邑?)のところで、
「
崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死にました。また人民の中には背くものがありました。」
と書いたことに該当すると思います。
ここに登場する男の王とは卑弥呼の男弟のことではなくて、狗奴国の男王・卑弥弓呼=崇神天皇のことだと思います。
●狗奴国は熊野?狗奴国とは熊野ではないでしょうか。
初代神武天皇・10代崇神天皇はどちらも和風諡号を「ハツクニシラススメラミコト」といい、同一人物ではないかとする説があります。
そして神武天皇は日向から熊野に迂回して大和を目指しています。
●卑弥弓呼とは日命(ひのみこと)
「卑弥弓呼とは日命(ひのみこと)に漢字をあてたのではないでしょうか。
つまり邪馬台国があった3世紀ごろ、大和の日女命と熊野の日命の二人の太陽神がいたということではないかと私は考えます。
●崇神天皇は入り婿だった?
崇神天皇の和風諡号のひとつに「ミマキイリヒコイニエ」というのがありますが、名前の中の「イリ」は入り婿の入りだとする説があります。
狗奴国の男王卑弥弓呼は邪馬台国の入り婿となることで邪馬台国をのっとり、邪馬台国の男王としてたったのではないでしょうか。
卑弥呼の宗女・台与とは笠縫邑で天照大神を祀った崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命 のことだと思います。
●崇神天皇はなぜ天照大神や倭大国魂神と一緒に生活するのが恐くなったのか?このように考えると、邪馬台国とは大和国のことで大和朝廷の前身だと考えられます。
そしてすでに説明したように、天照大神とは卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命、卑弥呼の男弟=倭大国魂神=大物主神でしょう。
ここで、●
檜原神社(笠縫邑?)のところでに
「
天皇は天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)と一緒に生活するのが恐くなり、崇神天皇6年、天照大神と倭大国魂神を宮中の外で祀らせることにしました。」とあったのを思い出してください。
崇神天皇=狗奴国の男王・卑弥弓呼は大和国(邪馬台国)の入り婿となり、さらに卑弥呼=日女命=倭迹迹日百襲姫命と、卑弥呼の男弟=倭大国魂神=大物主神を殺したのだと思います。
そしてその霊を宮中で祀っていたのでしょうが、二神を自分で殺したので祟られるのではないかと怖くなり、宮中の外で祀らせることにしたのではないでしょうか。
今でも日本人は先祖の霊を家の仏壇などで祀っていますが、先祖の霊が怖いという人はあまりいません。
どちらかというと先祖の霊は守護神のような存在だと感じている人が多いと思います。
なぜ崇神天皇は天照大神や倭大国魂神と暮らすのが怖かったのでしょうか?
それは、崇神天皇は天照大神や倭大国魂神と血のつながりがなく、また彼らを殺したといううしろめたさがあったためではないでしょうか。
毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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