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喜光寺 夕景 『寺史乙丸は藤原不比等と同一人物?』 



奈良市菅原町 喜光寺 
2019年10月6日 撮影


喜光寺3


①ふたつの創建年

喜光寺にはふたつの創建年が伝えられています。
①『行基年譜(1175年)』・・・721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。

②『菅原寺記文遺戒状』・・・715年、元明天皇の勅願によって創建された。

喜光寺2

②喜光寺宮は菅原氏の氏寺?

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-81.html
↑ こちらのサイトで増尾正子さんが次のように書いておられます。

「天満宮を鎮守するは、此の地はもと菅原道真公の先祖 土師宿弥古人などが住んでいた所であった。
菅原の地名により、菅原の姓を賜り、代々この地に住んでおられた。
菅公(菅原道真公)も、この地で誕生されたので、寺の東北方に誕生所の旧蹟がある。この故に菅公手ずから自らの肖像(菅原神社のご神体)と、十一面観音の尊像を刻れて、この寺にお祀りになった。
(1750年9月 住持沙門 寂照謹書「喜光寺略縁起」による)」


ここに菅原神社とでてきますが、菅原神社は菅原天満宮ともいわれています。
喜光寺の傍らにあり、その位置からいっても喜光寺と関係が深そうに思えます。

明治まで神仏は習合して信仰されていました。菅原天満宮は喜光寺の鎮守であったのではないでしょうか。
この地には菅原道真の先祖の土師氏が住んでいたとされ、喜光寺も菅原氏の氏寺ではないか、とする説もあります。

菅原神社 

菅原天満宮

③石川女郎、藤原宿奈麻呂の邸宅に通う?

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-81.html
↑ 増尾正子さんはこんなことも書いておられます。

歌碑は、万葉集巻二十 四四九一 石川女郎の歌で
大き海の 水底ふかく 思ひつつ 裳引き平らしし 菅原の里
藤原宿奈麻呂(藤原四卿のうち式家の頭領 宇合の第二子)の妻、石川女郎が愛が薄れて離別されたことを悲しみ恨みながらも、幸せだった日々を追憶した歌。
寵の厚かった頃、大海の水底のように深くあなたのことを思いながら、華やかな裳裾を引いて、道が平らになる位、踏みならして、この菅原の里に通い続けましたのに、あの頃が懐かしいといった歌。


石川女郎のこの歌について、千人万首のほうはこう訳しています。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/isiira.html

大洋の海底のように深く心の底であなたのことを思いながら、裳の裾を何度も引いて行きつ戻りつした、菅原の里よ。
【語釈】◇裳引きならしし 男の訪れを待ち侘び、裳裾を引いて何度も家の前を行きつ戻りつしたことを言うか。


増尾正子さんの訳では、菅原の里に通ったのは石川女郎としています。
すると藤原宿奈麻呂の邸宅がこのあたりにあったということになります。

一方、古代の結婚は男が女のもとに通う妻問い婚が主流とされており、千人万首のほうは、それを踏まえて訳しているようです。

万葉集には石川女郎という歌人がいて、たいてい男と色恋の歌を贈答しあっています。
一般には古代豪族の石川氏出身の女性だと考えられていますが、江戸時代の国学者の橘守部は「石川とは遊女のことではないか」としておっしゃっています。

遊女であれば請われて男の家を訪ねるなんてこともありそうですが、どうでしょう?

④寺史乙丸=藤原不比等?

増田正子さんのように解釈すれば、菅原の里に通ったのは石川女郎であり、藤原宿奈麻呂の邸宅がこのあたりにあったということになります。

とすれば『行基年譜(1175年)』に『721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。』という記事が気になってしまいます。

当時、寺氏という氏族がいたのかと思って調べてみましたが、ぐぐってみてもそういう氏族がいたとはでてきません。
寺史乙丸は菅原道真の先祖・土師氏だと考えられていますが、実は藤原不比等だったりしないでしょうか?

藤原不比等という表記は後世のもので、もともとは藤原史と記していたようですし。

藤原不比等には四人の男子がありました。
武智麻呂は藤原南家の開祖、房前は藤原北家の開祖、宇合は藤原式家の開祖、麻呂は藤原京家の開祖です。
藤原宿奈麻呂は式家の開祖・宇合の子で、のちに藤原良継と改名しています。
兄弟には広嗣・綱手・百川などがいます。

740年には兄・藤原広嗣の乱に連座して伊豆へ流罪となっていますが
742年に赦されています。
763年には佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと南家の
藤原仲麻呂暗殺計画をたてますが、事前に仲麻呂にばれ、
解官の上、姓も剥奪されています。
764年、藤原仲麻呂の乱がおこると宿奈麻呂は仲麻呂を討ち、この功績により昇進し、内大臣にまで上り詰めました。



『行基年譜(1175年)』に『721年、寺史乙丸(てらのふひとまる)が住居を行基に寄進。722年に行基が寺とした。』とありますが、
藤原不比等は720年に亡くなっています。

死んだ不比等が土地を寄進できるはずがない、なんて野暮なこと言わないで~。
談山神社なんて死んだ定恵(不比等の兄)が創建したことになっているくらいです。
梅原猛さんは古代の人々は人間の生死の区別を明確にわけていなかったのではないか、というようなことをおっしゃっていました。

不比等くらいの人物であれば広大な土地と邸宅を所有していたことでしょう。
そして不比等が亡くなった際に遺族が不比等の邸宅を行基に寄進して、それを寺史乙丸が寄進したと表現しているのかも?

邸宅の一部は喜光寺に寄進しても、まだ土地や邸宅があったのかもしれません。
そしてその土地は不比等から宇合へ、宇合から宿奈麻呂へと相続されたため、宿奈麻呂の邸宅は菅原の地にあったんだったりして?

喜光寺



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[2019/10/07 22:15] 奈良県 | TB(0) | CM(0)

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