Author:佳音
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-境内案内よりなるほど、「春日社を奉祀せり」ということでしたが「右は春日社を奉祀せり」と書いてありますね。なぜ「右は」の文言を削ったんでしょうね。春日社だけでなく、八幡宮、豊受姫社も奉祀しているじゃないか、と突っ込まれるのが嫌だったんでしょうかw由緒書にはこうも書いてあります。「当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長 年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと」著者は飛鳥の地上絵は奈良時代(710年~794年)に作られたとしますが、馬立伊勢部田中神社は慶長(1596年~1615年)以前は別の場所にあったのです。山上智さんが見られた由緒書は、上のピンク色の文字で示した由緒書と違うものだったのかもしれませんね。字古宮は「豊浦小墾田宮の故地」とあります。豊浦小墾田宮跡は巨人図のピンク色の丸で示したところです。この位置では三ツ星の中央の星になぞらえるのは、ちょっと厳しいかも。④飛鳥の巨人像はなかった?私は山上智さんのいう飛鳥の巨人像は存在していなかったと思います。というのは、青い丸が示す春日神社をなぜ無視したのか、と疑問に思うからです。全ての春日神社をつなぐ線をひくのではなく、いくつかの春日神社は無視してもいいということになれば、いろんな図が書けてしまいますよねw何か理由があってこれらの春日神社を無視したのであれば、その理由について述べられるはずです。でも山上智さんは無視した理由を述べられていませんし、そもそも青丸で示した春日神社が存在することについても記されていません。特に●a、●bは図の輪郭に近く、●cは図の輪郭の中にありながら無視されているので、気になります。(左足が太すぎるので、●cの春日神社を採用してつないだほうがすっきりするかもしれませんが)著者は「それぞれの春日神社の拝殿は対面する春日神社の方角を向いている」との旨を書かれています。なので、春日神社の拝殿の向きがオリオンの中心を向いているかのように思ってしまいますがすべての神社を回って拝殿の方角を確認したわけではないと思います。なぜなら著者は藤原京跡で地図を広げて春日神社を探し線でつないだと書いておられ、実際に全部の春日神社を回ったとは書かれていないからです。残念ながら飛鳥の巨人像はなかったといえるのではないかと思います。申し訳ないですが、巨人像のように見えたのは山上智さんの錯覚ではないでしょうか?※まとめサイトなどへ無断で転載することはおやめください。歴史ブログ・旅 free style もよろしくお願いします~。毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!にほんブログ村
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