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般若寺 コスモス  『ハンセン病患者は文殊菩薩の生まれ変わり』 

奈良市川上町 北山十八間戸
奈良市般若寺町 般若寺
奈良市奈良坂町 奈良豆比古神社 




●ハンセン病患者保護施設ー北山十八軒戸

奈良県庁から北へ、奈良坂と呼ばれる坂の道を歩いていくと、長屋が見えてきます。


北山十八間戸 
北山十八間戸と霊山寺境内にある文殊菩薩像を合成


北山十八間戸といい、1243年、忍性によってつくられたハンセン病患者のための保護施設です。

隣にあるお好み焼き屋さんに声をかけるとフェンスの鍵をあけて見学させてもらえます。

●古より作られていた福祉施設

北山十八間戸が作られたのは鎌倉時代ですが、飛鳥時代の聖徳太子や、奈良時代の光明皇后が病人のための施設を作ったという記録も残されています。
日本では古から福祉施設が作られていたのですね。

●般若寺

北山十八軒戸社から奈良坂を登っていくとコスモス寺で有名な般若寺があります。

般若寺は629年に高句麗の僧・慧灌(えかん)によって創建されました。
その後、735年に聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したそうです。


般若寺 十三重石塔 コスモス
塔百景24


現在、境内にある十三重石塔は1253年ごろ、南宋から日本にやってきた石工・伊行末(いぎょうまつ)によって建立されたものです。


般若寺 コスモス
 
本堂には文殊菩薩が祀られています。

般若寺 卒塔婆 コスモス  

●北山十八間戸と般若寺の深い関係

北山十八間戸と般若寺には深ーい関係があります。
鎌倉時代の僧・忍性は文殊菩薩を深く信仰しており、1244年には丈六の文殊菩薩像を般若寺に安置しています。
そしてハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていたと聞いたことがあります。
忍性が1243年にハンセン病患者保護施設として北山十八間戸を作ったのは、彼が文殊菩薩を深く信仰していたからなんですね。

志貴皇子はハンセン病を患った?

般若寺を出たあと、門前にある植村牧場さんでソフトクリームを買い(おすすめ!)、ちょっと行儀悪いけど、ソフトクリームをなめなめさらに坂を上っていくと奈良豆比古神社につきます。

奈良豆比古神社には次のような伝説が残されています。


春日王(天智天皇の孫・志貴皇子の子)がハンセン病を患いました。
あるとき、春日王の子の浄人王が父の病回復を祈って舞を舞いました。
すると春日王のハンセン病は治りました。

ところが地元にはハンセン病を患ったのは春日王ではなく、春日王の父親の志貴皇子だと伝承されているそうです。

奈良豆比古神社 翁舞 三人翁

上の写真は奈良豆比古神社の翁舞ですが、浄人王が舞った舞をルーツとしているのだと思います

志貴皇子の高去年は正史では716年、万葉集詞書では715年となっていて食い違っています。
ここから、志貴皇子は715年に暗殺され、その死が1年近く隠されていたとする説があります。

詳しくはこちらの記事をお読みください。→ 
奈良豆比古神社 翁舞 『道鏡の父親は志貴皇子だった?』  

奈良豆比古神社 翁舞 白式尉2

●志貴皇子はハンセン病をもたらす怨霊だった?

でも私は志貴皇子がハンセン病を患ったというのは違うのではないかと思います。
そうではなくて、志貴皇子はハンセン病をもたらす怨霊であると考えられていたのではないでしょうか?

貧乏神はいかにも貧乏そうな姿で現されます。
すると疫病神は疫病を患った病人の姿をしていると考えられたのではないかと思えます。

志貴皇子は実在の人物ですが、奈良豆比古神社の御祭神として祀られています。
実在の人物で神として祀られている人はたいてい怨霊です。
菅原道真、井上内親王などが有名ですね。

祟り神は神として祀り上げると守護神に転じるという考え方があり、そういったことから怨霊は神として祀られることが多かったのでしょう。

さらに日本では神仏は習合されて信仰されていました。
般若寺の文殊菩薩と奈良豆比古神社の御祭神・志貴皇子は習合されていたのではないでしょうか。
つまり、般若寺は志貴皇子を慰霊するためのお寺ではないかと思うのです。


般若寺 コスモス

毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/15 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)