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二条城 プロジェクションマッピング 『二条城の東西南北はなぜずれているの?』 

京都市中京区 二条城

二条城のミステリー、それは・・・

このごろ二条城には夜な夜な妖怪があらわれるのです!

二条城
 
 
二条城には妖怪を超えるミステリーがあります。
それはなんとっ!二条城の東西南北がちょっとずれているのです!

①二条城は東西南北がちょっとずれている。


平安京は碁盤の目のように南北の通りと東西の通りが交差するように作られました。
現在の京都の町も南北の通りと東西の通りが交差しており、平安京の名残をとどめています。
それにあわせて建物も北面は正確に北を向き、東面は正確に東、南面は正確に南、西面は正確に西を向いて建てられていることが多いです。

ところが、二条城はそうなっていません。
下の地図を見ればおわかりいただけるようにちょっと東にずれているのです。

なぜ二条城はずれているのでしょうか?




②平安京は天の北極から真北を定めて作られた?

平安京は北極星から真北を定めて造京したとする説があります。
しかし私は北極星から真北を定めたのではなく、天の北極から北を定めたのではないかと思います。

北極星とは北極の延長線上にある星のことで、時期によって北極星は変わります。
北極星が変わるのは、地球が歳差運動といって下図のように独楽がぶれるような動きをしているためです。

Gyroscope precession

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyroscope_precession.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Gyroscope_precession.gif
LucasVB [Public domain] よりお借りしました。

この歳差運動が原因で北極星になる星がかわってくるのです。

地球の歳差運動の周期は約25800年です。

Precession N

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Precession_N.gif
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Precession_N.gif よりお借りしました。
Tauʻolunga [CC BY-SA 2.5 (
https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)]

↑ 歳差による北極星の変遷の図を見ると、かなり大きな円を描いて北極星が変遷することに驚かされます。

現在の北極星はポラリス(こぐま座α星/上図+2000の文字の向かって左の星)です。
平安京建都ごろの北極星は何だったのでしょうか。

上記リンクさきの図に+2000とか+4000とあるのは西暦だと思います。
この図で794年ごろを見てみると特に目立った星がありません。
794年ごろ、人々はどの星を北極星としていたのでしょうか?(わかる方、教えてください)

ただ飛鳥時代から陰陽寮がおかれて天体観測を行っていますから、天の北極の位置は正確にわかっていたのではないでしょうか?

二条城 プロジェクションマッピング 妖怪

③徳川家康が西洋の方位磁石を用いて北を決めた?

二条城の東西南北がずれている理由については、二条城を築造した徳川家康が西洋の方位磁石(コンパス)を用いたためではないかといわれています。

地球の自転軸と天体表面が交差する2点のうち片方を真北(しんぼく)といいます。
平安京はこの真北を天の北極から定めてつくられたようです。

一方、磁石が指し示す北は磁北といい、現在の日本中心部では、真北に対して磁北が約7度西側にずれています。

「あれっ、二条城は真北に対して西じゃなくて東にずれてるやん?」と思われたかもしれませんが、磁北はころころと位置を変化させるのですね。

磁北とは地球の磁力の北のことをいいます。
磁力は地表とマントルの摩擦、マントル内の対流・摩擦で生まれます。
そして地表とマントルの摩擦、マントル内の対流・摩擦は変化するので、磁北は一定ではなく変化するのです。

海洋プレートの古地磁気の研究によれば、数万年~数十万年の頻度でN極とS極が反転しているそうで、これをポールシフトといいます。
(ときどきポールシフトを地軸の逆転と勘違いしている人がいますが、地軸ではなく磁極の逆転なので注意してください。)

1613年、平戸でサリングという人が磁北のずれを測定したそうです。
このとき、磁北は真北に対し東に「2度50分」ぶれていたそうですが、このぶれは、現在の二条城のぶれとほぼ一致しています。

しかし徳川家康が二条城の築城を始めたのは1601年でサリングの測定より10年以上前のことになります。
渡辺真経氏は、二条城創建時の磁北のぶれは東に約1度であったとしています。

二条城 プロジェクションマッピング 石垣?

④方位磁石のルーツ・指南魚は中国で発明された。


方位磁石のルーツは3世紀の中国で、指南魚と呼ばれていました。
これが11世紀ごろヨーロッパに伝わって羅針盤が作られたといわれています。

曽公亮(そこうりょう)が著した『武経総要(ぶきょうそうよう)』には次のような説明があります。

a.鉄の針を熱する。
b.aを南北方向に置いて冷やして磁化させ、た磁針をつくる。
c.bを魚の形をした木にとりつける。
d.cを水に浮かせると魚の口が南をしめす。

https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm
↑ こちらに指南魚の図があります。

そこで疑問が生じます。

日本に西洋のコンパスが伝わる前に、中国の指南魚が伝わっていたのではないか?

894年の遣唐使計画は菅原道真によって休止となり、それ以降行われていません。
907年に唐が滅んだあと、五代十国時代をへて960年に宋(北宋)がおこります。
10世紀から13世紀にかけて日宋貿易が行われました。

ですから、西洋のコンパスが日本に伝わる前に中国の指南魚が日本に伝わっていた可能性はないとはいえません。
ですが、ぐぐってみましたが指南魚が日本に伝わって用いられていたというような記述がみつかりません。
調べたりないのかもしれませんが。

二条城 プロジェクションマッピング 友禅

⑤常に真北の逆方向(南)をしめす指南車

史書には「黄帝(伝説的人物)が戦のために指南車をつくらせた」と記されています。

しかしこの指南車は磁石を用いるものではありません。
たぶん次のようにして作ったのだと思います。(まちがってたら教えてね)

まず天の北極から真北を求めます。その真逆の方向が南になりますね。
そして指南車を南向きに置いて、車を動かします。
そのまままっすぐ進めば車は南に向かっていることになります。
しかしカーブなどがあると左右の車輪の回転に差が生じます。
その差を利用して、指南車の台の上に乗せた人形が常に南をさすように動きます。

工学はまるきりわからないので、車輪の回転の差をどのように作用させて人形が常に南をさすように置いたのかまではわかりません。(わかる方、教えてください!)

指南車は最初に置いた方向を指し示すので、常に西や北を指し示すことも可能です。

これは日本にも伝わって、658年には指南車が作られたという記録があります。
しかしこれは常に真北の逆方向(南)を示す道具で、磁北を示す指南魚やコンパスとは別のものですね。



⑥紀元前3世紀の中国の指南の杓で天然磁石が用いられていた。

指南車では磁北を知ることはできません。
しかし磁北を知ることのできる道具として、紀元前3世紀ごろの中国ですでに指南の杓(しゃく)というものが造られていました。

https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm

↑ リンク先に指南の杓の図があります。
スプーンは天然の磁石を用いているそうです。
スプーンの柄のほうが南を指す仕組みになっているようです。


この指南の杓が日本に伝わっていたという可能性はあるでしょうか?

平安時代の陰陽師は六壬式という占いを行っており、これに六壬栻盤(りくじんちょくばん)を用いていたようです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chokuban.svg?uselang=ja

リンク先に六壬栻盤の図があります。指南の杓に似ていますが、北斗七星に模した天然磁石を用いたスプーンではなく、北斗七星の図が書かれているだけです。

洛中洛外図

⑦平安時代の日本人は磁北を知っていたか?

平安時代の日本人は真北と磁北の違いをわかっていたでしょうか?
発掘調査で指南の杓もしくは指南魚のようなものが出てきたとか、文献に記されているということはないんでしょうか。
このあたりネットでぐぐった程度ではよくわかりませんでした。

遣隋使・遣唐使によって多くの書物や知識が日本に持ち込まれていますし
遣唐使廃止後も日宋貿易が行われているので、やはりそれに伴って多くの書物や知識が日本に持ち込まれたと考えられます。

でも指南魚の製法が伝わっていたら、航海の際に用いられたのではないかと思います。
江戸時代の裏針と呼ばれる羅針盤はでてきますが、江戸時代以前どうだったのか、そのあたりのこともわかりませんでした。

日本人は平安京が東西南北をきっちりあわせて作られていることから真北は知っていたと思いますが、
磁北の存在や真北と磁北の違いについてわかっていたかどうかについては結局わかりませんでした~。

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⑧二条城がずれているのは鬼門除け?

ですので徳川家康が西洋のコンパスを用いて二条城をたてたので向きがずれたという可能性はあります。
でも他の理由も考えられます。

建物を東西南北をきっちりあわせてつくると東北の角ができます。
東北の角は鬼が出いりする角として忌まれ、東北の角を作らないような工夫がされた建物があります。

京都御所の塀の東北部は鬼門の角を作らないように内側にへこませてあります。
さらに、「去る」にかけてあるのか、塀の屋根の下に猿の像が置かれてあり、「猿が辻」と呼ばれています。

猿が辻 
猿が辻↓↑

猿が辻 猿の像 

猿が辻は内側をへこませて東北の角をつくらないようにしたのですが、ずらすことによって鬼門除けとしたケースがあります。
石清水八幡宮では東北の角をつくらないように、建物の土台の石組み部分をずらしているのです。


石清水八幡宮  鬼門封じ 
石清水八幡宮

二条城が3度ずれているのは、石清水八幡宮の鬼門除けをさらに発展させ、建物や敷地などのすべてをずらしたものだったりして?

二条城 プロジェクションマッピング 竹に友禅


二条城



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