
④方位磁石のルーツ・指南魚は中国で発明された。
方位磁石のルーツは3世紀の中国で、指南魚と呼ばれていました。
これが11世紀ごろヨーロッパに伝わって羅針盤が作られたといわれています。
曽公亮(そこうりょう)が著した『武経総要(ぶきょうそうよう)』には次のような説明があります。
a.鉄の針を熱する。
b.aを南北方向に置いて冷やして磁化させ、た磁針をつくる。
c.bを魚の形をした木にとりつける。
d.cを水に浮かせると魚の口が南をしめす。
https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm
↑ こちらに指南魚の図があります。
そこで疑問が生じます。
日本に西洋のコンパスが伝わる前に、中国の指南魚が伝わっていたのではないか?
894年の遣唐使計画は菅原道真によって休止となり、それ以降行われていません。
907年に唐が滅んだあと、五代十国時代をへて960年に宋(北宋)がおこります。
10世紀から13世紀にかけて日宋貿易が行われました。
ですから、西洋のコンパスが日本に伝わる前に中国の指南魚が日本に伝わっていた可能性はないとはいえません。
ですが、ぐぐってみましたが指南魚が日本に伝わって用いられていたというような記述がみつかりません。
調べたりないのかもしれませんが。

⑤常に真北の逆方向(南)をしめす指南車
史書には「黄帝(伝説的人物)が戦のために指南車をつくらせた」と記されています。 しかしこの指南車は磁石を用いるものではありません。
たぶん次のようにして作ったのだと思います。(まちがってたら教えてね)
まず天の北極から真北を求めます。その真逆の方向が南になりますね。
そして指南車を南向きに置いて、車を動かします。
そのまままっすぐ進めば車は南に向かっていることになります。
しかしカーブなどがあると左右の車輪の回転に差が生じます。
その差を利用して、指南車の台の上に乗せた人形が常に南をさすように動きます。
工学はまるきりわからないので、車輪の回転の差をどのように作用させて人形が常に南をさすように置いたのかまではわかりません。(わかる方、教えてください!)
指南車は最初に置いた方向を指し示すので、常に西や北を指し示すことも可能です。
これは日本にも伝わって、658年には指南車が作られたという記録があります。
しかしこれは常に真北の逆方向(南)を示す道具で、磁北を示す指南魚やコンパスとは別のものですね。
⑥紀元前3世紀の中国の指南の杓で天然磁石が用いられていた。
指南車では磁北を知ることはできません。
しかし磁北を知ることのできる道具として、紀元前3世紀ごろの中国ですでに指南の杓(しゃく)というものが造られていました。
https://www.jp.tdk.com/techmag/inductive/200807/index.htm
↑ リンク先に指南の杓の図があります。
スプーンは天然の磁石を用いているそうです。
スプーンの柄のほうが南を指す仕組みになっているようです。
この指南の杓が日本に伝わっていたという可能性はあるでしょうか?
平安時代の陰陽師は六壬式という占いを行っており、これに六壬栻盤(りくじんちょくばん)を用いていたようです。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chokuban.svg?uselang=ja
リンク先に六壬栻盤の図があります。指南の杓に似ていますが、北斗七星に模した天然磁石を用いたスプーンではなく、北斗七星の図が書かれているだけです。
⑦平安時代の日本人は磁北を知っていたか?
平安時代の日本人は真北と磁北の違いをわかっていたでしょうか?
発掘調査で指南の杓もしくは指南魚のようなものが出てきたとか、文献に記されているということはないんでしょうか。
このあたりネットでぐぐった程度ではよくわかりませんでした。
遣隋使・遣唐使によって多くの書物や知識が日本に持ち込まれていますし
遣唐使廃止後も日宋貿易が行われているので、やはりそれに伴って多くの書物や知識が日本に持ち込まれたと考えられます。
でも指南魚の製法が伝わっていたら、航海の際に用いられたのではないかと思います。
江戸時代の裏針と呼ばれる羅針盤はでてきますが、江戸時代以前どうだったのか、そのあたりのこともわかりませんでした。
日本人は平安京が東西南北をきっちりあわせて作られていることから真北は知っていたと思いますが、
磁北の存在や真北と磁北の違いについてわかっていたかどうかについては結局わかりませんでした~。

⑧二条城がずれているのは鬼門除け?
ですので徳川家康が西洋のコンパスを用いて二条城をたてたので向きがずれたという可能性はあります。
でも他の理由も考えられます。
建物を東西南北をきっちりあわせてつくると東北の角ができます。
東北の角は鬼が出いりする角として忌まれ、東北の角を作らないような工夫がされた建物があります。
京都御所の塀の東北部は鬼門の角を作らないように内側にへこませてあります。
さらに、「去る」にかけてあるのか、塀の屋根の下に猿の像が置かれてあり、「猿が辻」と呼ばれています。
猿が辻↓↑
猿が辻は内側をへこませて東北の角をつくらないようにしたのですが、ずらすことによって鬼門除けとしたケースがあります。
石清水八幡宮では東北の角をつくらないように、建物の土台の石組み部分をずらしているのです。
石清水八幡宮
二条城が3度ずれているのは、石清水八幡宮の鬼門除けをさらに発展させ、建物や敷地などのすべてをずらしたものだったりして?

