祇園祭 宵宮・・・7月14日~16日
①壬生六斎念仏講中はなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているの?
祇園祭 宵山 綾傘鉾イケメンさんが登場して、かっこよく口上を述べます。ばちっと決まっていますね!
祇園祭 宵山 綾傘鉾
綾傘鉾の棒振り囃子が始まりましたよ。
綾傘鉾の囃子方は壬生六斎念仏講中によって奉仕されています。
六斎とは太鼓や鉦をかき鳴らしつつ踊ったり、土蜘蛛などの芸能を行うもので、空也上人が創始者とされています。
参照/
土蜘蛛の謎⑲ 平将門を慰霊した時宗の僧侶たち 六斎念仏は京都のお盆の風物詩で、壬生六斎、千本六斎、中堂寺六斎、嵯峨六斎、梅津六斎など多くの六斎会があります。
壬生六斎念仏は古より京都の壬生地域で行われていました。
祇園祭の山鉾町は四条通の烏丸駅付近にありますが、壬生地域は烏丸駅から1.5kmほども離れています。
そんな離れた場所にある壬生地域の壬生六斎念仏講中がなぜ綾傘鉾の囃子方を奉仕しているのでしょうか?
祇園祭 宵山 綾傘鉾
②元祇園梛神社・隼神社お盆の季節、壬生六斎を見ようと壬生寺に行ったことがあります。
阪急四条大宮駅で下車し、四条通を西へ向かい、少し南に入ったところに壬生寺があります。
その南に入る角に神社(京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 )があり、二本の石柱に、「元祗園梛神社」「隼神社」と記されていました。
その石柱を見て、ひらめいたことがあり、「おーーーーっ」と思いました。
梛神社(向かって左)と隼神社(向かって右)
③八坂神社の神はもとは梛神社で祀られていた。梛木神社の説明板には興味深いことが記されていました。
私が興味深く思った点を要約して書き出してみます。
a.868年に京で疫病が流行したので、播磨の広峰神社より牛頭天皇を京都に勧請して鎮疫祭を行った。
b.このとき、その神輿を梛の囃子において祀ったのが梛神社のはじまり。
c.のちに牛頭天皇を八坂神社に移した。
d.このとき風流傘をたて、鉾をふり、音楽を奏して八坂神社に送った。(祇園祭の起源)
e.隼神社(御祭神/タケミカヅチ、フツヌシ)は蛸薬師坊城にあったが、1918年にこの地に移された。
④牛頭天皇、広峰神社より勧請されて、梛神社→東光寺→八坂神社と遷座した?過去に何度か書きましたが、京都の八坂神社と兵庫県姫路市の広峰神社はどちらも牛頭天皇(素戔嗚尊)の総本社を称しています。
ですが広峰神社側の資料、伊呂波字類抄、二十二社註式、播磨国勝地実録、岡崎神社の史料などを照合すると、次のような経緯で牛頭天皇は江坂神社に勧請されたということになりそうです。
い・869年疫病が流行り、藤原基経が播磨国の牛頭天皇を都に勧請した。
ろ・京都四条にある元祇園梛神社(京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2)は、この時、牛頭天王の乗る御輿を梛の林中に置いて祭ったことが始まりである。
は・京都に着いた牛頭天王は北白川の東光寺に祭られた。
に・その後、藤原基経が八坂にあった邸宅を寄進して感神院祇園社を建立し、牛頭天王を遷座した。(現在の八坂神社)
また神戸の祇園神社、大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などは、神様を廣峯神社から八坂神社へ移した際に神様が休憩された場所と伝わっています。
祇園祭 宵山 綾傘鉾p ⑤隼神社は隼人の神だった。梛神社の隣には隼神社がありますが、隼神社は奈良にもあって、角振明神・角振隼明神・椿本神社とも呼ばれています。
『奈良市史社寺編』には次のように記されています。
『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。
これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。
兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。
勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』
隼神とは隼人の祖神だったのです。
奈良 隼神社京都の隼神社の御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)でしたね。
奈良の隼神社の御祭神は火酢芹命(隼神)と、角振神(火酢芹命の御子)となっていて御祭神は違います。
御祭神が異なるので別の神社だと思うのは間違いで、両者には深い関係があります。
平安京遷都のときに隼神社が平安京に分祀されたという記録があるんですね。
そしてこれが蛸薬師坊城にあった隼神社のことだと考えられています。
つまり、隼神社はもともと奈良にあり、平安京遷都に伴って京都の蛸薬師坊城に分祀されたということでしょう。
京都の隼神社も奈良の隼神社と同じく、隼人の祖神を祀る神社だと考えられます。
蛸薬師坊城は現在の中京区壬生御所ノ内町のことで、現在の隼神社からほんのわずかばかり北です。
大正7年(1918年)蛸薬師坊城から梛神社境内に移されていますが、隼神社は平安時代以降、ずっと壬生の地にあったのです。
隼神社が京都に分祀されたとき、隼人たちもいっしょに京都へやってきたのではないかと、私は考えます。
隼神社は隼人の祖神です。そして先祖の霊はその子孫が祭祀すべきと考えられていたからです。
祇園祭 宵山 綾傘鉾⑥まつろわぬ民・隼人隼人とは古代薩摩や大隅(現在の鹿児島県)に住んでいたまつろわぬ民のことです。
記紀には次のような物語があり、隼人の先祖は火照命(海幸彦)だとされています。
海幸彦は海で魚を獲り、山幸彦はは山で鳥や獣を獲って暮らしていました。
あるとき、山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしてしまい、釣り針をさがして海神のすむ竜宮へやってきました。
山幸彦は海神の娘である豊玉姫と結婚し、しばらくそこで楽しく過ごしました。
3年たって赤鯛の喉から海幸彦の釣り針が見つかり、山幸彦はもとの世界へと帰ることにしました。
このとき海神は山幸彦に次のように言いました。
『海幸彦が攻めてきたならば、塩満玉を出しなさい。大水がでて、海幸彦は溺れるだろう。
海幸彦が謝ったなら塩乾玉を出しなさい。水がひいて海幸彦は助かるだろう。』
山幸彦がもとの世界に戻ったのち、海幸彦はどんどん貧しくなり、悪い心を持つようになって山幸彦を攻めてきました。
山幸彦は海神に言われたように塩満玉をだして海幸彦を溺れさせ、海幸彦が許しを請うと塩乾玉を出して救いました。
海幸彦は、ホオリに仕えて昼夜お守りすると言いました。
ホデリは隼人の祖であり、今でも隼人はホデリが溺れた時の仕種を演じて仕えています。
祇園祭 宵山 綾傘鉾p
⑦火酢芹命=火照命(海幸彦)?⑥の話を読んで、「あれっ?」と思った方もおられると思います。
もう一度『奈良市史社寺編』の記述を見てみましょう。
『隼神とは、火酢芹命(ほすせりのみこと)のことである。
これは隼人族の祖であり、海幸彦とも呼ばれ、神武天皇の祖父で山幸彦とも言われている、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の兄にあたる。
兄・海幸彦は、弟・山幸彦との戦いに敗れて、代々、宮城の警固に任じられた。
勝利した山幸彦は、天皇家の元を築いたと記紀で伝えられている。』
と書いてありますね。
記紀によれば、ニニギとコノハナノサクヤヒメの長男が火照命(海幸彦)、次男が火酢芹命、三男が彦火火出見命(山幸彦)です。
しかし『奈良市史社寺編』では火酢芹命が海幸彦であると書いてあります。
『奈良市史社寺編』は記述を間違えたのでしょうか?
私はこの記述は間違いとはいえないと思います。
火酢芹命は誕生の時に名前が登場するだけで、その後は一切出てこず、不自然です。
火酢芹命と火照命(海幸彦)は同一神なのではないでしょうか。
なぜ一柱の神を二柱にわけたのかよくわかりませんが、弟が兄を打ち負かすなんてケシカランというような考え方があったのかも?
祇園祭 宵山 綾傘鉾p
⑧山幸彦=天皇家、海幸彦=物部氏?山幸彦は天孫ニニギの三男で神武の祖父なので、天皇家の先祖ですね。
するとニニギの長男である海幸彦は、ニニギと同じく天孫でありながら、神武に皇位を奪われたニギハヤヒのイメージと重なります。
ニギハヤヒは物部氏の祖神です。
山幸彦は天皇家を象徴する人物、海幸彦は物部氏を象徴する人物として書かれているのではないでしょうか。
祇園祭 宵山 綾傘鉾p
⑨九州甘木と大和に類似した地名が。九州の甘木地方と大和地方には類似した地名が多くあり、またその位置関係も類似しているという指摘があり
ここから物部氏は九州からやってきた一族ではないかとする説があります。
甘木という地名も気になります。
肩野物部氏が本拠地としていた大阪府交野市・枚方市を流れる川を天野川といいますが、もともとは『うましの川』だったといわれています。
物部氏の祖神はウマシマジノミコトであるし、どうも『うまし』という言葉は物部氏を表す言葉のように思えます。
甘木ももともとは『うまぎ』だったのではないかと思ってしまいます。
祇園祭 宵山 綾傘鉾p
⑩隼人は物部氏?また九州の大宰府は流刑地であり、多くの謀反人が九州へ配流されています。
隼人とは九州に住んでいた物部氏または、九州に流罪となった物部氏のことだったりして?
⑪隼人の強制移住隼人は度々反乱をおこしたため、朝廷は隼人たちを畿内に移住させる政策をとりました。
畿内に移住させられた隼人たちは、ヤマト王権の支配をうけ、隼人司に属しました。
そして朝廷の警護・祭祀・相撲・竹細工の製作などを行っていました。
大隅隼人が住んだという現在の京田辺市には『大住』の地名が残っています。
ということは、隼人たちは特定地域に定住させられたのではないでしょうか。
もと隼神社があった蛸薬師坊城付近にも隼人たちは強制移住させられたのかも?
山鉾巡行 綾傘鉾
⑫畿内に移住した隼人のその後隼人司はしだいに形骸化していきました。
隼人司が形骸化したのちの隼人たちはどうなったんでしょうか?
私は隼人たちは非人となったのではないか、と考えました。
非人といっても江戸時代の身分制度の非人ではありません。
中世、畿内には寺社に隷属する民がおり、非人と呼ばれていたのです。
非人たちは死体の埋葬・神社の清掃・警備・神事などを行っていました。
隼人たちは、『俳優(わざおき)の民』であったとされますが、俳優とはこっけいな動作をして歌い 舞い、神や人を慰め楽しませることで、芸能の一種です。
現在では芸能は単なる娯楽ですが、中世には芸能は神事であり、非人たちによって行われていたようです。
山鉾巡行 綾傘鉾⑬犬神人京都では清水坂にすんでいた犬神人と呼ばれる非人が有名です。
犬神人は祇園社(現在の八坂神社)に隷属する非人でした。
犬神人は「弦召せ」と言って弓の弦を売り歩いていたので「つるめそ」とも呼ばれていました。
犬神人(つるめそ)の 緋縅着たる 暑さかな
この川柳は、祇園祭で緋色の着物を着た犬神人たちが警護のために町をうろついている様を詠んだものです。
一遍聖絵に犬神人の絵が描かれていますが、結髪せず、口には白いマスクをつけています。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg よりお借りしました。
<a title="覚如 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で" href="
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"><img width="256" alt="犬神人 本願寺聖人伝絵" src="
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E4%BA%BA_%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%81%96%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E7%B5%B5.jpg"></a>
上は本願寺聖人絵伝に描かれた犬神人です。
⑭祇園祭の起原は梛神社から八坂神社に遷宮する祭?隼神社の隣に鎮座する梛神社は元祇園社と呼ばれ、ここから現在の八坂神社の地に移ったと考えられます。
祇園祭は八坂神社の祭礼ですが、梛神社の由緒によれば、『神霊を八坂(今の八坂神社)に遷祀したとき当地の住人は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して神輿を八坂に送った。
これが後の祗園会(祗園祭)の起源と伝えられる。』とあります。
現在、祇園祭の際、壬生六斎念仏講中が祇園囃を奉仕しています。
綾傘鉾は他の山鉾とは違って、傘鉾ですね。(ほかに傘鉾は四条傘鉾もあります。)
綾傘鉾が傘鉾なのは、梛神社の由緒にある風流傘をルーツにするものではないでしょうか。
⑮狗人と犬神人
また山鉾巡行では綾傘鉾では結髪せず、口に白いマスクをした人が棒振りをして渡御する道を清めます。
これは八坂神社に隷属していた犬神人と同じいでたちです。
山鉾巡行 綾傘鉾日本書紀には『海幸彦は狗人(いぬひと)として仕えた』とあります。
祗園社の非人は犬神人と呼ばれており、どうも関係がありそうに思えます。
また大正7年(一九一八)蛸薬師坊城から梛神社の隣に隼神社を遷宮したのは、祇園社と隼神社には関係があるという認識があったからではないでしょうか。
⑰隼には角が生えていないのに角振隼明神とはこれいかに?奈良の隼神社のもう一柱の神である角振隼明神という神名は妙ですね。
隼には角なんか生えてないですやん~。
角振とは祇園社の御祭神・牛頭天王のことではないでしょうか。
牛頭天皇の神像には角が生えたものが多いです。
そして牛頭天皇と隼人を合体させた神名が角振隼明神なのでは?
●狗人=隼人が犬神人のルーツ? 次のように考えると辻褄が合うのではないかと思いますが、どうでしょう?
古代、畿内には物部王朝があったが、日向より東征してやってきた神武天皇に政権を奪われた。
神武に抵抗した物部王朝の王は殺され、その子孫の多くは九州に流罪となった。
これが隼人のルーツである。
奈良時代、平城京近くに隼神社が作られ、火酢芹命(隼神)と、角振隼神(火酢芹命の御子)が祀られた。
火酢芹命(隼神)とは海幸彦のことで、隼人の祖神である。
角振隼神とは牛頭天皇(スサノオ)のことであった。
スサノオは天照大神と対立して高天原を追放されている。
天照大神は天皇家の祖神とされるので、天照大神と対立したのは物部氏と考えられる。
また船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったとしておられる。
そして物部氏の祖神ニギハヤヒは雲陽誌によれば星の神だと記述がある。
スサノオとは大物主神のことである。
隼人は物部氏の子孫だと考えると彼らがスサノオ=牛頭天皇=角振隼神を祀っていたことの筋が通る。
隼人たちは九州から強制移住させられて、隼神社の近所に住んでいたのだろう。
というのは先祖の霊は子孫が祀ることによって慰霊することができると考えられていたためである。
また彼らは宮中の警備にもあたったと考えられるが、隼神社から平城宮はそう距離が離れていない。
宮中で警護する際、彼らは犬の鳴き声をまねた。
ここから隼人は狗人と呼ばれた。
平安京遷都に伴って隼神社は壬生の地に分祀した。
当然、壬生の隼神社を祭祀するために、何人かの狗人たちが壬生の地に移転したことだろう。
繰り返すが、先祖の霊は子孫が祀るべきであると考えられていたからである。
貞観十一年(八六九)京の都に疫病が流行し、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊を播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市)から壬生の地に勧請して鎮疫祭を行った。
これが梛神社である。
奈良・隼神社の御祭神の角振隼神とはスサノオ=牛頭天皇であった。
そのため、隼神社からほどちかい場所に祇園社は作られ、またスサノオの子孫である狗人たちによって祭祀された。
その後、祇園社は八坂に遷宮した。
祇園社を祭祀するために狗人の何人かは祇園社近くの清水坂に移転した。
隼人は祇園社の御祭神・スサノオの子孫でもあるため、彼らが祭祀する必要があったためである。
彼らは狗人から転じて犬神人と呼ばれた。
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