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祇園祭 宵山 芦刈山 『芦を刈る男の正体とは?』 


祇園祭宵山 7月14日~16日

芦刈山

①芦刈は「悪し刈り」?


蘆刈山は能「芦刈」をテーマにした祇園祭の山です。
能「芦刈」は次のような話です。

都で乳母をしていた女が舟で難波の浦まで行き、そこから故郷・摂津の国(現在の大阪府)日下の里へ着きました。
女の夫・日下左衛門の家を訪ねると、日下左衛門はいませんでした。
貧しさから家にいられなくなり、行方不明となってしまったようです。
女は日下左衛門を探し出すことを決意します。
女はこのあたりで評判の芦売りを見にいきました。
芦売りの男は狂乱の動き(カケり)をしたのち、「自分は都の人とゆかりがある」「昔この地に仁徳天皇の御殿があったため、御津(みつ)という地名になった」などと話をしています。
女は、芦売りに芦を持って来させ、芦売りの顔を見ると日下左衛門でした。
男も女が妻であることに気が付いて逃げようとします。女は男に近づいて「あなたを迎えにきたのです」と告げました。
男は烏帽子と直垂を着けて姿を変えて舞を舞い、女と男はともに都へ向かいました。

「芦」は「悪し」にかかり、「芦刈」は「悪しを刈る」という意味もありそうに思えます。

芦刈山ご神体 

芦刈山ご神体

②日下の里はどこ?

日下の里は東大阪市日下町のことでしょうか。
海岸線から随分離れていますが、昔の大阪湾は現在の内陸部まで入り込んでいたのです。
淀川や大和川が運んでくる大量の土砂で堆積し、また干拓工事などが行われて現在のように平野が広がったとされています。
そして生駒山麓の現在の日下あたりに草香江と呼ばれる入江があったようです。

しかし、この日下の里がどこにあったのかについては、不明とされています。






③御津


御津についてぐぐってみると、滋賀県大津市坂本、三重県度会(わたらい)郡二見町、兵庫県南西部、島根県松江市などもでてきますが、これは当然、 難波(大阪)の港津・御津のことでしょう。

現在、大阪市中央区に御津八幡宮や御津寺がありますが、日下左衛門の妻は日下からこのあたりまでやってきたのでしょうか?
三津寺は御津八幡宮の神宮寺であったとか、御津八幡宮は三津寺の鎮守であったなどといわれています。

御堂筋イルミネーション-三津寺 
三津寺


御津八幡宮の創建については、諸説あります。
a.天平時代, 大仏殿建立に際し 九州の宇佐から勧請した宇佐八幡を奈良のほか、この地にも祀った。
b.749年、孝謙天皇が八幡大神の神託を受けて勅使を佐八幡宮に派遣した。その勅使が平城京に帰京する際、ここに立ち寄った。その場所に三津八幡具を建立した。
※孝徳天皇と称徳天皇は同一人物で、769年に「道鏡を次期天皇にすべし」との神託があり、これを確認するために勅使として和気清麿をおくっています。
しかし749年とあるので、これとば別のときに宇佐八幡へ勅使を派遣したのかもしれません。
c.860年、宇佐八幡宮を男山に遷座する際、立ち寄った旧跡なので神社を創建した。の時 西海より初めて此の地に到る
その旧跡であるが故に ここに祭った
d.仁徳天皇が浪速に都をおいた頃、 味原の郷にあった神社を後世ここに移した。

御津八幡宮・三津寺の南の高津高校(大阪市天王寺区餌差町)には高津宮跡碑があり、ここが仁徳天皇皇居跡とされます。
味原は天王寺区にある地名です。



④日下左衛門は仁徳天皇の霊?

能では古のことや由来などを語った人物が、実は古のことや由来にかかわる人物の霊だった、という話がたくさんあります。

たとえば「高砂」では肥後国阿蘇の宮の神主・友成が出会った老夫婦は、高砂の相生の松の由来などを語りますが、実は老夫婦は相生の松の精だったのです。

ということは、もしかして日下左衛門って、仁徳天皇の霊?

従者「いかに申し候。さて御津の浜とはいづくにて候ふぞ
蘆売「忝くも御津の浜の御在所はあれにて候
従者「不思議やな。なにとて忝きなんどとは仰せ候ふぞ
蘆売「あら。なにともなや。さらば何とて御津の浜とはおん尋ね候ぞ。忝くも仁徳天皇この難波の浦に大宮作りし給ふ。おん津と書いて御津の浜とは申すなり
従者「げに面白き謂われかな。皇居なりつる浦なれば。御津の浜とは理なり
蘆売「波涛海辺の大宮なれば。漁村にともす篝火までも。禁裏雲居の御火かと見えて。上雲上の月卿より。下万民の民間までも。有り難かりし恵みぞかし。や。あれ御覧ぜよ御津の浜に。網子調ふる網船の。えいやえいやと寄せ来るぞや
(能『蘆刈』)

荷茶屋 

芦刈山の荷茶屋(にないちゃや)/かつてこの函に茶道具をいれて山鉾巡行に同伴し、人々の喉の渇きを潤したとのこと。


⑤芦が池水路

仁徳天皇と芦には何か関係があるのか、と思って調べてみると、堺市に芦ヶ池水路がありました。
向陵公園(堺区向陵東町3丁)から仁徳天皇陵に至る、約1.4キロメートルの水路です。

現在の水源は井戸水ですが、かつては狭山池から水を引き、仁徳天皇陵の濠、環濠集落堺の濠(内川・土居川)を経て大阪湾に注いでいたそうです。

この水路が芦が池水路というのは、たまたまなのかもしれませんがw。

祇園祭 山鉾巡行 芦刈山 
芦刈山 山鉾巡行(7月17日)

⑥芦の仮ねの一夜ゆえ

難波江の 蘆のかりねの 一よゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
(難波江の、蘆を刈ってつくった小屋での、仮の一夜、蘆の一節(ひとよ)のような一夜のために、難波江に建てられている澪標の言葉と同じように身を尽くして 恋しつづけるべきでしょう。)

百人一首にあるこの歌で芦の小屋で仮の一夜を過ごしたのはは、遊女と解釈されています。
あ、皇嘉門院別当という人は崇徳天皇の皇后・皇嘉門院に仕えていた女性で(別当は役職名)遊女ではありません。
彼女が遊女のことを歌に詠んだ、ということですね。

平安時代の大江匡房の『遊女記』によれば、
「難波江・淀川の水運で栄えた江口・神崎・川尻・室・蟹島には遊女がおり
小舟で通行する船に近づいて客をとっていた。遊女の小舟は水面がみえないほど多かった。」
とあります。

日下左衛門の妻は芦を刈って作った小屋で春を売る遊女だったのかも?

まいしまシーサイドパーク ネモフィラとヨット 

舞洲より大阪湾(難波江)を望む。


⑦男女和合は荒魂と和魂を和合させて御霊に転じる呪術?

神はその現れ方で、御霊(神の本質)・荒魂(神の荒々しい側面)・和魂(神の和やかな側面)の3つに分けられるといわれます。
そして荒魂は男神を、和魂は女神を表すとする説があります。
すると神の本質である御霊とは男女双体ということになると思います。

荒魂・・・神の荒々しい側面・・・鬼王ビナヤキャ・・・男神
和魂・・・神の和やかな側面・・・ビナヤキャ女神・・・女神
御霊・・・神の本質・・・・・・・歓喜天・・・・・・・男女双体

男女が関係を持つことは、荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術であったのではないかと私は考えています。

真言立川流ではドクロ本尊の前でエッチを繰り返すという呪法を行っていたそうですが、これも荒魂(男神)に和魂(女神)を和合させることで、御霊に転じさせる呪術だったのではないでしょうか?

芦刈山ご神体2 

芦刈山の古いご神体でしょうか?眉毛や髭が失われていますが、顔がご神体にそっくりです。首だけというのが怖いですがw。

⑧仁徳天皇は怨霊だった?

諡号に「徳」の字のつく天皇は怨霊だといわれます。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えた者のことで、疫病の流行や天災は怨霊のしわざによって引き起こされると考えられていました。

そういえば崇徳天皇は保元の乱をおこして敗れて讃岐に流罪となっていますし、
安徳天皇は平家没落のとき、祖母に抱かれて壇ノ浦に入水して崩御されています。
承久の乱をおこして鎌倉幕府に敗れた後鳥羽院は、顕徳院とも呼ばれていました。
このうち、崇徳・後鳥羽(顕徳院)はいずれも怨霊伝説があります。

すると仁徳天皇もまた怨霊であったのか?

日本書紀はやたら仁徳天皇をほめちぎっていますが、それは仁徳天皇が怨霊だからでは?
(怨霊を批判すると祟られると考えられていたことでしょう。)

仁徳天皇は、民の竈から煙があがっていないのを見て、3年間租税を免除し、その間は宮殿の屋根の茅も葺き替えなかったという話は有名ですね。

日下左衛門は貧乏で家に住めなくなった、とありますが、
日下左衛門は仁徳天皇であり、租税を免除して屋根の茅をふきかえることができず、
それで家(宮)に住めなくなり、芦刈をしていたというのが、能「芦刈」のテーマなのではないでしょうか?

仁徳天皇の宮は大阪市天王寺区餌差町の高津宮跡碑あたりで、日下左衛門が住んでいた日下ではないのがおかしいですがw。

祇園祭 菊水鉾 

菊水鉾

祇園祭 月鉾

月鉾

 


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[2019/07/18 18:35] 京都の祭 | TB(0) | CM(0)

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