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片埜神社 紫陽花 『アイヌは先住民族ではなかった、は間違いだと思う。』 


大阪府枚方市 片埜神社

片埜神社2


①アテルイの首塚

片埜神社の境内に鬼の面が。
なぜここに鬼の面が置いてあるのでしょう。

このあたりは豊臣秀吉が築城した大坂城の鬼門(東北)にあたります。
そのことから片埜神社は大阪城の鬼門除けの神社として信仰されたそうです。
それで鬼の面がおいてあるのですね。

片埜神社-鬼の面

でも私はこの鬼の面を見ると、片埜神社の隣の牧野公園にあるアテルイの首塚(地元では蝦夷塚と呼ばれている。)や牧野公園の東北3丁(327m)離れた場所(枚方市宇山東町6-1)にあったというアテルイの胴塚をイメージしてしまいます。
牧野公園はかつては片埜神社の境内であったといわれます。

アテルイは吾妻鏡などに登場する悪路王と同一視されていますが、悪路王は伝説の中では鬼とされていることがあるのです。

アテルイ(?~802年)は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)などとも記され、奈良時代末期から平安時代初期ごろ、東北地方に住んでいた蝦夷の首長でした。

このころ、東北にはまつろわぬ民(朝廷に従わない人々)が結構いたようで、蝦夷と呼ばれていたのです。
802年、征夷代将軍・坂上田村麻呂は東北のまつろわぬ民を攻撃し、苦戦の末勝利を納めました。
そして、蝦夷の首長であるアテルイとモレを京へ連れ帰ります。
坂上田村麻呂は朝廷にアテルイとモレの助命を嘆願しますが、聞き入れられず、ふたりは河内国杜山で処刑されました。

アテルイの首塚 
牧野公園 アテルイの首塚

アテルイ・モレが処刑された場所は「杜山」のほか、「植山」「椙山」と記した史料もあります。
しかしいずれも河内国には存在しません。

枚方市宇山は江戸時代初期には上山という地名でした。
そこで植山は上山で、現在の枚方市宇山にある塚がアテルイの墓ではないかとする説があります。

昭和63年に枚方市教育委員会が牧野公園(アテルイの首塚がある。)の東北にある塚(アテルイの胴塚と考えられていた。)を発掘調査した結果、6世紀後半の円墳と判明しました。(宇山1号墳)
アテルイの墓とするには時期がずれています。
現在はその上にマンションが建てられて現存しません。

宇山1号墳の東には宇山2号墳があったそうですが、こちらも現存しないそうです

牧野公園東の坂道(府道17号枚方高槻線)は、「祟り坂」と呼ばれ、ここで転ぶとケガは一生治らないと言い伝えられているとのことです。

ということは牧野公園のアテルイの首塚は発掘調査されていないということでしょうか?





②北海道の歴史区分


アテルイやモレは東北地方に住んでいた民ですが、北海道に住んでいる人々、アイヌのことも次第に蝦夷と呼ばれるようになりました。

このアイヌについて、先住民族ではないとする俗説が広がっているみたいです。

この説についてお話しする前におおまかに北海道の歴史区分について、見ておきましょう。

北海道本州以南
数万年前氷河期で陸橋となった宗谷海峡を人類が渡ってきた。
約12,000年~13,000年前温暖となる。本州からも人が渡ってきた。
約2万年前~13,000年前旧石器時代
千歳市祝梅三角山遺跡が北海道最古の遺跡。
縄文時代
紀元前2世紀~8世紀続縄文文化
北海道には弥生文化(水稲耕作)が伝播しなかった。
樺太南端部、東は国後島・択捉島、南は宮城県北部から新潟県におよぶ。
弥生時代 渡来人が移住
水稲耕作が伝播
飛鳥時代(6世紀~710年)
奈良時代(710年~794年)
7世紀~12世紀擦文文化
擦文式土器
平安時代(794年~1185年)
3世紀~13世紀オホーツク文化
樺太・オホーツク沿岸、千島列島
漁業・海獣狩猟
アイヌと同化したか、追われたと考えられている。
13世紀~明治 アイヌ文化 鎌倉時代(1185年~1333年)
建武の親政(1334年~1335年)
室町時代(1336年~1573年)
安土桃山時代(1573年~1603年)
江戸時代(1603年~1868年)
明治時代(1868年~1912年)

片埜神社 鳥居

③アイヌは先住民族ではない説

それでは「アイヌは先住民族ではない説」についてみてみましょう。

a.アイヌ文化は擦文文化ののち13世紀に突如現れる。
b.擦文文化の人々は竈のある竪穴式住居に住んでいた。アイヌ文化の人々は掘立柱建物に住むなど、文化の分断がある。
c。アイヌ語と日本語は身体語などが大きく異なり、20進法を用いるなど類似性がない。
d.日本語とアイヌ語が分離したのは8000年以上前という研究がある。(吉田知之氏の研究)
e.アイヌ語は擦文文化の人々が用いていた言語から生まれたと考えられる。
  アイヌは東北までいたとされるので、東北までアイヌ語を用いていたと考えられるが、そういう証拠はない。
f.アイヌ語地名が東北にあるとされるが、アイヌ語地名はアイヌ語の発音に漢字をあてたものであり、元の発音がどのようなものであったかわからない。
g.明治時代の地図では北海道の地名はカタカナ、東北の地名は漢字になっている。
h.蝦夷の言葉を理解するために通訳が必要だったとする史料があるが、きつい方言でも通訳は必要である。
i.東北の蝦夷は何故アイヌ語を使わなくなってしまったのか。
J.アム―ル川流域から樺太までの地域にギレミ族が住んでいた。1264年、ギレミの民はフビライに「クイ(アイヌ)やイリウ」が侵攻してくると報告。元はアイヌを攻めた。このことから1264年以前、アイヌは樺太に存在していたことがわかる。
1264年以前は擦文時代でアイヌはいない。アイヌは道東より北海道全域に居住範囲を広げたのではないか。
h.擦文時代、北海道には縄文人の子孫(擦文人)がいたが、アイヌ人はいなかった。アイヌ人は樺太に住んでいたが、モンゴルの攻撃を受けて北海道へ移住してきたのではないか。

つまり、北海道の擦文文化の担い手は和人であり、13世紀にモンゴルの攻撃をうけたアイヌが樺太から北海道にやってきて和人の土地であった北海道を占領した、というのです。

片埜神社 拝殿

④659年、阿倍比羅夫が胆振鉏の蝦夷20人に禄を与え、後方羊蹄に郡領を置く。

日本書紀に次のような記録があります。

658年阿部比羅夫、蝦夷に遠征する。降伏した秋田の蝦夷・恩荷を渟代(秋田県郡)・津軽(青森)二郡の郡領に定めた。
有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。
659阿部比羅夫、蝦夷国を討つ。阿倍は一つの場所に飽田(秋田)・渟代(秋田)二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡(青森)の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさへ/北海道)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。
後方羊蹄(シリベシ/場所は不明)に郡領を置く。
659阿部比羅夫、粛慎(※1)と戦って帰り、虜49人を献じる。
660阿部比羅夫、粛慎を討つ。比羅夫は、大河(石狩川または後志利別川)のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま/樺太説、奥尻島説がある)まで追って彼らと戦い、能登馬見籠が戦死するもこれを破る

※1 粛慎は本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族のことですが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎と異なるとみられるということです。

これを読むと、658年以前、北海道だけでなく東北も日本であったといえるかどうか、微妙だと思えます。

659年、阿倍比羅夫が胆振鉏(いぶりさへ/北海道)の蝦夷20人に禄を与え、後方羊蹄(シリベシ/場所は不明)に郡領を置いたとありますが、これによって北海道は日本に属することになったのでしょうか?

片埜神社 神殿


④国産み神話・行基図・奈良時代の律令国

私は659年の阿倍比羅夫の記事は、日本が北海道を征服したということを示すものではないと思います。
郡領を置いたものの、北海道は広すぎて支配しきれなかったというのが実情ではないでしょうか。

そう思う理由のひとつに国産み神話があります。

記紀の国産み神話によると、産んだのは淡路島・四国 ・隠岐島 ・九州 ・壱岐島 ・対馬・佐渡島・本州 ・児島半島(半島となったのは江戸時代で、それ以前は島だった) 小豆島 屋代島(周防大島) 姫島 五島列島 男女群島 とあり、北海道はありません。

記紀が記された奈良時代(710~794年)、北海道は日本ではないという認識があったように思われます。

これに対して、「記紀は神話であり事実を記したものではない」という反論があるかもしれませんが
行基図にも北海道が含まれていません。

行基図とは奈良時代の僧・行基が作ったといわれる地図ですが、本当に行基が作ったものなのかは不明です。
現存する最古の行基図は1305年の銘がある京都・仁和寺所蔵の日本図ですが、西日本が記されていません。
同時期のもので、称名寺所蔵のものがありますが、こちらは東日本が記されていません。
東日本および西日本が揃っているもので最古のものは14世紀半ばに作られたと考えられている『日本扶桑国之図(にほんふそうこくのず)です。(ただし、原図はなく江戸時代の写し)

Gyokizu

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gyokizu.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Gyokizu.jpg よりお借りしました。
村上勘兵衛(Murakami Kanbei) [Public domain]


これに対しても、「行基図は13世紀にアイヌが北海道を占領したのちに作られた地図ではないか」という反論があるかもしれません。
確かに古い13世紀以前の行基図が現存していないので、そうともいえるかもしれません。

それでは奈良時代の地方行政はどうなっていたのでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7
上記ウィキペディアの律令国一覧、701年~702年までの制度が及ぶ範囲(黄色部分)を見ると、やはり東北・北海道は律令国に含まれていません。

File:Japan prov map701.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7 より引用

それでも、律令国には含まれてはいないが、北海道には13世紀以前、アイヌとは異なる和人が住んでいたと言われるかもしれません。

しかし和人が住んでいたという証拠はないのではないでしょうか。
あるのは擦文文化の担い手たちが住んでいたという証拠だけだと思います。

②の「アイヌは先住民族ではなかった説」をもう一度読んでみてください。
仮にアイヌが樺太に住んでおり、モンゴルの攻撃を受けて北海道に移住してきたというのが事実だとしても、13世紀以前、北海道に住んでいたのが日本語に近い言語を話す和人であったという証拠はないのです。
「いや、ある。」という方はせびご一報くださるとうれしいです。

また百歩譲って、13世紀以前、北海道に住んでいたのが日本語に近い言語を話す和人であったとしても、その和人は日本人とはいえません。

琉球語は日本語に近い言語とされますが、琉球(沖縄)1429年から1879年まで日本ではなく、琉球王国という別の国でした。
1609年、薩摩藩が琉球の領土であった奄美大島、沖縄本島に進軍して勝利を納めたことで、琉球は薩摩藩の付属国となったのです。

つまり、仮に北海道に和人が住んでおり、そこへあとからアイヌがやってきたと仮定しても
北海道に住む和人にとってアイヌはあとからやってきて土地を奪った民族だとはいえても
日本人からみてアイヌはあとからやってきて土地を奪った民族だとはいえないと思います。

繰り返しますが、その理由は13世紀以前、北海道は日本の律令国に含まれていない=北海道は日本に含まれていなかったからです。

片埜神社

⑤考古学では擦文文化からアイヌ文化への移行の段階で、人間集団の交代はなかったという見解が一般的

③④は「アイヌは先住民族ではなかった」説を、歴史の観点から見てみました。
次に考古学の観点から見てみることにします。

瀬川拓郎さんの「アイヌと縄文」と言う本に次のように述べられていました。
 
A.擦文文化ののちの時代をアイヌ文化と呼んでいるが、ニブタニ文化と呼ぶべきである。
B. アイヌ文化とはアイヌ語、口承文芸、模様、祭祀、儀礼、生業など近世アイヌの生活文化全体をさす。
Ⅽ.考古学でいうアイヌ文化は擦文文化に続く平地住居・鉄鍋・漆塗椀などの物質文化の組み合わせをさす。
一般的な意味でのアイヌ文化とは異なる。 
Ⅾ. 考古学の文化の設定はその文化に特徴的な物質文化や遺跡がみつかった土地の地名をつける。
E. アイヌ文化は民俗の名前をつけてしまったため、「13世紀になってアイヌ人がどこからかやってきた」と誤解が生じている。
F.擦文文化からアイヌ文化への移行はゆるやかで連続的。人間集団の交代を想定する研究者はいない。
G 11世紀ごろ、竪穴式住居が平地住居におきかわり、土器が漆器・鉄鍋におきかわったのは、日本海沿岸だけ。その他の地域では12世紀から13世紀初めごろまで土器と竪穴住居が用いられていた。

 ただ発掘物の写真などが少ない本だったので、擦文文化からアイヌ文化への移行の過程などを視覚的に確認できませんでした。

⑥DNA鑑定から考えてみる。

崎谷満さんの分析の結果、日本人は主にY染色体ハプログループⅮ1a2の縄文系と、ハプログループ01b2の弥生系を起源としているとのことです。

私はこの手の知識にうといので、プログループⅮ1a2とかハプログループ01b2が何を示すものなのかよくわかりませんが、両者は型が異なるという点をおさえておけばいいのかなと思います。

ハプログループⅮ1a2(縄文系)はアイヌ人・沖縄人・本土日本人に多く見られ、朝鮮半島や中国人には見られません。
そしてこのハプログループⅮ1bはアイヌ人の88%に見られます。

ということはつまり、アイヌ人は縄文人のDNAを濃く残す民族であり
本土日本人は渡来人との混血が進んで縄文系のDNAと弥生系のDNAが混ざった民族ということになるのではないでしょうか。
ということは、もともと北海道に住んでいた縄文人の子孫がはアイヌ人であると、そういえるのではないかと思います。

日本語とアイヌ語の違いについてはまた改めて考えてみることにします。





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