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宝箱のような町・空堀 『大阪城・江戸城とヨーロッパの城壁都市の広さを比較してみる。』 

大阪市中央区 空堀商店街あたり

空堀商店街 古い番地プレート 

大阪市南区は平成元年に東区と統合され中央区となりました。

①空堀にはかつて大坂城の南惣構堀があった。


昭和の時代にタイムスリップしたかのような空堀界隈。
レトロなものにあふれた宝箱のような町。

このあたりにはかつて大坂城三の丸の外堀・南惣構堀(みなみそうがまえぼり)があったとされます。
南惣構堀は水のない堀だったので、空堀と呼ばれ、それが地名になったといわれています。




②現在よりも一回り広かったかつての大坂城

上の地図をみていただくとおわかりいただけるように、現在の大坂城公園はすごく広いですが、かつての大坂城はもっと広かったのです。


北は淀川が天然の堀の役割をはたしていました。
現在、淀川(大川)にかかる天満橋の長さは151mです。
船も頻繁に航行しているので水深もそこそこあるのでしょう。
かつての淀川の川幅や水深がどの程度あったかわかりませんが。

坂になっている空堀商店街 

商店街は長い坂になっています。

東は大和川が天然の堀の役割を担っていました。
現在の大和川は大阪市の南部を流れていますが、かつては大坂城の東北あたりから南へ向かって流れていたのですね。
江戸時代に付け替え工事が行われ、現在のような流れになったそうです。
旧大和川がどのあたりを流れていたのかがわかれば、かつての大坂城の東の範囲が推定できますが
調べてみましたがよくわかりませんでした。

空堀商店街 シャンデリアのある店 
和風の窓にシャンデリアがミスマッチ!


西は東横堀川。
東横堀川は大坂城の西総構堀として開削されたものです。
東横堀川にかかる高麗橋から大坂城公園西まで900mほどあります。

南は南惣構堀=空堀があったところなので、空堀商店街があるあたりまでが大阪城の敷地だったということになりますね。
空堀商店街から大坂城公園南西角からまでの距離は1.24kmほどもあります。

さらに南の外濠が天王寺付近にあったのでは、ともいわれています。

空堀商店街 温泉の自動販売機 

温泉の自動販売機

③空堀のメリット

堀には水のない空堀と、水をためた水堀があります。
甲冑を着ていると水堀を泳ぎ切るのは大変ですが、空堀にもメリットはあります。
十分深くしておけば、堀に降りるのも、堀から出るのも大変です。
そこであえて堀に敵を誘い込み、逃げ場を失った敵を攻撃するということが可能になりますね。
武士が掘に落下した場合、水があると水が緩衝材の役割を果たしますが、硬い地面だと死にいたるでしょう。

実際、大坂冬の陣で徳川方は南惣構堀=空堀に苦しみ、大阪城を落とすことができませんでした。
そこで徳川家康は豊臣秀頼と和議を行い、秀頼の身の安全と本領の安堵とひきかえに、二の丸・三の丸の破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めさせたのです。

こうして南惣構堀=空堀は埋められたので、現存していません。

ところが徳川家康は再び大坂城をせめ(大阪夏の陣)、堀をうめて防御能力のなくなった大坂城は落城してしまったのです。

空堀商店街の鰹節屋さん 

④城郭都市比較

城壁・堀・土塁などの防御施設で囲んだ都市のことを城郭都市といいます。
ヨーロッパなどに見られる市街地まで城壁で囲んだ城壁都市や、大阪城・江戸城・名古屋城などの城下町まで堀で囲んだ都市も城郭都市です。

城壁は見た目立派ですが、大砲で簡単に破壊できるため、大砲の出現によって城郭都市は作られなくなったと聞いたことがあります。
その点、堀を産めるのは大変で、防御能力は掘の方が優れているかもしれません。
また城壁は視界を遮ってしまうので、攻撃に不利な点もあったのではないかと思います。

さて、②で大坂城の広さについて見ましたが、ヨーロッパの城郭都市と比較するとどうでしょうか?

ヴェネツィア(市と隣接諸島)約600ha
ミラノ(15世紀のヴィスコンティの城壁内)580ha
ガン(14世紀の城壁内)570ha
ケルン(1180年の城壁内)560ha
フィレンツェ(1284年の城壁内)480ha
パドヴァ(15世紀のヴェネツィア人の城壁内)450ha
パリ(シャルル5世の1370年の城壁内)440ha
ブリュッセル(1357年の城壁内)415ha
ボローニャ(13世紀の城壁内)400ha
ルーヴァン(1357年の城壁内)395ha
ヴェローナ(14世紀のスカリジェーリの城壁内)380ha
ブリュージュ(1297年の城壁内)360ha
ピアチェンツァ(14世紀の城壁内)290ha
ティーネン(14世紀の城壁内)250ha
ナポリ(15世紀のアラゴンの城壁内)200ha
ピサ(12世紀の城壁内)200ha
バルセロナ(1350年の城壁内)200ha
シエナ(14世紀の城壁内)180ha
リューベック(13世紀の城壁内)180ha
ロンドン(中世に修復された古代ローマの城壁内)160ha
ニュールンベルク(1320年の城壁内)160ha
メケレン(14世紀の城壁内)160ha
フランクフルト・アム・マイン(14世紀の城壁内)150ha
アヴィニョン(1356年の城壁内)140ha

http://www.ku-rpg.org/column/population.htmlより引用

※中世後期の主要都市について、「外側の」城壁内面積を表にしたもの。実際の居住区である市域よりは数値が大きくなるとのこと。

大阪城の大きさについては、こちらに記述がありました。→https://shirobito.jp/article/650

大阪城:約106ha(大坂城公園)となっています。

106haは大坂城公園の面積ですから、かつての大坂城はもう少し広かったでしょう。
1.5倍の広さがあったとすると、160haとなります。

浄瑠璃人形を飾った家

⑤江戸城はヨーロッパにひけをとらない大きさだった。


上のサイトには他の城の面積についても記されています。

熊本城:約20ha
姫路城:約23ha
名古屋城:約35ha
仙台城:約44ha
江戸城::約230ha(皇居+皇居外苑)

大阪城は上表のヨーロッパの城壁都市よりは狭かったかもしれません。
しかし江戸城はヨーロッパの城壁都市に匹敵する大きさをもっていたといえるでしょう。

江戸城は(皇居+皇居外苑)となっていますが、その範囲は次の地図のとおりです。




https://shirobito.jp/article/650
上記サイトの3枚目の図の内郭と記されている赤で表示されている部分が皇居+皇居外苑です。
そしてそのまわりの青で表示されているのが外郭です。

どのあたりまで外郭だったのか不明とのことですが、外郭を含めると最低でも内郭の4倍はありそうです。
そうすると230ha×4=920haとなり、ヨーロッパの城壁都市に負けない広さを持つ城郭都市だったといえそうです。

空堀商店街 昇薫堂さん 
⑥何を勘違いしたのか?

次のような記事がありました。

日本のお城は実に奇妙である。なにしろ城がとても小さく、どんなに大きな名古屋城、熊本城なども1000人も住めないぐらいの大きさだ。そ
れに対して、外国の城というとまったく規模が違う。中国では北京城、南京城、トルコのイスタンブールの城、フランスのパリの城壁・・・
どれもこれも威風堂々として、城の中に数万人から数10万人の市民を全部、収容できる。

なんで日本の城は世界でももっとも小さいのだろうか?

外国の城には市民が住んでいたが、日本のお城には不思議なことに殿様一家しか住んでいなかった?! 

簡単に言うと、外国の戦争は「領土獲得より、奴隷獲得」であり、日本の戦争は「領土獲得だけ」だったからだ。


http://takedanet.com/archives/1013802913.html より引用

空堀商店街 カフェ

申し訳ないですが、この文章は全く意味がありません。
というのは、話の前提である「日本の城は世界でももっとも小さい」の時点で勘違いされているからです。
なぜ勘違いしたのでしょうか。

a.外国の城郭都市と、日本の城郭都市の中の一部分にすぎない天守閣を比較している。
b.日本では空襲を受けて多くの建物が破壊されたり、町が近代化する中で、城郭都市が古の姿をとどめているケースが少ない。
c.日本でも戦争に負けると領民が奴隷にされることがあったことを武田さんはご存じないか、無視されている。

参照/大阪城 紅葉 『日本の城郭都市と乱取り』  

空堀 路地の神社 
 
狭い路地のあちこちに神様や仏様が祀られていました。昔の日本人は神仏に見守られて生活していたんですね。

空堀 三輪車 



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[2019/07/11 10:30] 大阪府 | TB(0) | CM(0)

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