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法起寺 コスモスと夕景 『観音菩薩になった鷺』 


奈良県生駒郡斑鳩町 法起寺
2011年10月15日 撮影



法起寺は聖徳太子が法華経を講じた岡本宮を、聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が寺に改めたものだとされています。

法起寺 コスモス2  

塔百景20


●鷲になった観音様

日本霊異記に次のような説話が記されています。

岡本尼寺(法起寺のこと)には観音様の像が十二体ありました。
聖武天皇の御代、この観音像の六体が盗まれ、どれだけ探しても見つかりませんでした。
それからずいぶんたったころ、寺近くの池の小枝に鷺がとまっていました。
子供たちが近づいてみると昔盗まれた観音像があり、観音様はもとどおり寺に安置されました。
「観音様が鷺に姿を変えて戻ってこられた」と人々はますます岡本尼寺のの観音様をうやまうようになりました。


●死んだ人の魂は鳥になって天に向かう?


古事記に鳥たちがアメノワカヒコの葬儀を行うようすが記されています。
河雁(かわかり)は供養の物持ち、鷺は掃持(ははきも)ち、、翠鳥(そにどりは)を料理を作る御食人(みけびと)、雀はウスを打つ碓女(うすめ)、雉(きざし)は導き嘆く哭女(なきめ)をつとめたとあります。

またササキという鳥がいますが、これに御をつけるとミササギ(陵)となります。

以前、仁徳天皇陵に行ったことがありますが、あまりに大きすぎて地上から見たのではそれが前方後円墳であるとはとても認識できませんでした。
空高く飛ぶ鳥ならば、仁徳天皇量が前方後円墳であることが認識できるでしょう。
古墳は鳥の目線を意識して作られていると思います。
ナスカの地上絵も同様だと思います。



古の人々は死んだ人の魂は鳥となって天へ向かうと考えたのではないでしょうか。
岡本寺近くの池に止まっていた鷺とは死んだ人の魂が鳥に姿を変えたものだということでしょう。

●菅原道真は十一面観音の生まれ変わり

京都・北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺の門前には「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」と記された石柱が建てられていました。

「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」の天満宮とは天満宮の御祭神・菅原道真のことです。
御本地仏とは本地垂迹説からくる言葉です。
本地垂迹説とは「日本古来の神々は仏教の神々が衆上を救うためにこの世に姿をあらわしたものである」とする考え方のことで、この考え方が日本の神仏習合のベースとなりました。
そして日本古来の神々のことを『権現』『化身』、仏教の神々のことを『本地仏』といいました。

つまり、「天満宮御本地仏 十一面観世音菩薩」とは「天満宮=菅原道真は十一面観音の生まれ変わりである」「天満宮=菅原道真の本地仏である十一面観音をお祀りしています」というような意味になります。

●怨霊から学問の神となった菅原道真

菅原道真は藤原時平の讒言によって大宰府に流罪となり数年後、失意のうちに亡くなりました。
その後都では疫病が流行り、天災があいつぐなどし、それらは道真の怨霊の仕業だと考えられました。

陰陽道では祟り神(陰)は祀り上げることで、守護神(陽)に転じると考えられていました。

現在、菅原道真が学問の神として信仰されているのは、道真という怨霊を祀り上げた結果だといっていいでしょう。

法起寺 コスモス

●聖徳太子も怨霊だった?

そして梅原猛氏は聖徳太子ももともとは怨霊だった、とおっしゃっています。
彼の子孫は蘇我入鹿に責められて山背大兄王以下全員法隆寺で首をくくって自殺したからです。

法起寺近くの池に止まっていた鷺には聖徳太子とその子孫の霊が宿っていると昔の人々は考えたのかもしれませんね。

現在、法起寺には重要文化財の十一面観音が収蔵庫に安置されていますが、十二体あるとは聞きません。
法起寺に観音様が12体あったというのは事実ではなく、創作されたものなのでしょうか?
それとも長い年月の間に失われてしまったのでしょうか?

法起寺 夕景

塔百景21



毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!

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[2016/10/17 00:00] 奈良県 | トラックバック(-) | コメント(-)