大阪市天王寺区 四天王寺
2019年6月9日 撮影(紫陽花・ハルカス・猫の門のみ)
①経文を鼠から守る猫おや、『太子殿 猫の門』と書いてありますね。
門を見上げてみると、蟇股(幕の上あたり)に猫の彫刻がありました。
谷町筋から石の鳥居ごしに境内をながめると、五重塔と金堂が見えます。
五重塔・金堂・講堂は塀で囲まれていて中心伽藍を形成しています。
その中心伽藍の後方(東)に太子殿・奥殿からなる聖霊院があり、塀で囲われています。
その入り口として虎の門、猫の門などがあるのですが、猫の門は開かずの門だということです。
虎ノ門の写真は撮り忘れまして~(汗~)
リンク先の写真をご覧くださいませ!
https://ja.foursquare.com/v/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA-%E8%99%8E%E3%81%AE%E9%96%80/537738e211d22e39cbcd5727猫は聖霊院・経堂に納められた経文を鼠から守っていると言われます。
②大阪大空襲から逃げられなかった猫
また四天王寺の猫は鼠をとらず、夜な夜な花街へ出かけていたので、寺は困って金網を巡らせたなんて伝説も。
四天王寺は1934年の室戸台風で五重塔が倒壊するなどの被害を受け、1940年に五重塔が再建されました。
しかし1945年に大阪大空襲があり、堂塔はことごとく焼失してしまいました。
猫の門もこのとき焼失してしまったのですが、金網がめぐらされていたため、猫は逃げることが出来なかったなどともいわれています。
1963年、伽藍が再建されました。
1979年には聖霊院奥殿・絵堂・経堂が再建されました。
このとき、猫の門も再建されました。これが現在の猫の門です。
③日光東照宮と四天王寺の眠り猫同じような猫を見たことがあります。
そう、日光東照宮の東回廊奥・坂下門の蟇股にある眠り猫です。
四天王寺は大坂の陣で焼失し、のち徳川幕府によって再建されました。
このとき、日光東照宮の眠り猫を政策した左甚五郎が四天王寺にも猫の彫刻を作ったといわれています。
日光東照宮の眠り猫と四天王寺の眠り猫は、大晦日と元旦に鳴きあったなんていう伝説も伝えられています。
③皇居の虎ノ門は白虎にちなむ?四天王寺聖霊院の『猫の門』の南に『虎の門』があります。
『猫の門』は開かずの門なので、聖霊院へは『虎の門』より入ることになります。
皇居東京の江戸城(現在の皇居)にもかつて虎ノ門がありました。
この門の名前は東西南北を守護する聖獣・四神(玄武・朱雀・白虎・青龍)のひとつ、白虎からくるといわれます。
玄武は北、朱雀は南、白虎は西、青龍は東の守護神とされています。
そして玄武は丘陵に、朱雀は湖沼に、白虎は大道に、青龍は清流に棲むといわれ、
北に丘陵(玄武が棲む)、南に湖沼(朱雀が棲む)、西に大道(白虎が棲む)、東に清流(青龍)がある地を「四神相応の地」といいます。
そして江戸の町は江戸城(現在の皇居)を中心に四神相応の地に作られたなどといわれます。
平安京は、北に船岡山、南に巨椋池(現存せず)、西に山陰道、東に鴨川があり、四神相応の地につくられたといえます。
ですが、江戸の町は四神相応の地につくられたとはいえないです。
江戸の北に富士山・南に江戸湊・東に平川・西に東海道があるので四神相応の地だというのですが、富士山は江戸の北ではなく西南西ですw。
東京都庁展望台より富士山を望む。富士山は東京の西南西にあり、富士山の後ろに夕焼け雲が広がっています。江戸の町は四神相応の地に作られたのではなく、富士山を北斗七星、筑波山をカシオペア座に見立て、北斗七星とカシオペア座の中心にある北極星に藻して作られた町だと私は考えています。
江戸城の堀は「のの字」を描くように作られていますが、これは夜空の回転を意味していると思います。
回転方向が逆だといわれるかもですが、天空に星がはりついているとみなし、天空の上から星の回転を眺めれば、「のの字」、すなわち右回転に見えるはずです。
詳しくはこちらの記事をお読みください。↓
富士山 夕景色と朝景色 『関東に北極星・カシオペア座・北斗七星が存在していた?』 まあ、それはともかく、江戸城の虎ノ門は江戸城の西にあったということなので、虎ノ門という名前が西の守護神・白虎にちなんでつけられたとは考えられます。
④四天王寺の虎ノ門は毘沙門天にちなむ?ところが!
四天王寺の虎ノ門は四天王寺境内の西ではなく、東にある聖霊院の門です。
さらに聖霊院の西の門は猫の門であり、虎ノ門は聖霊院の南の門なのです。
江戸城の虎ノ門はともかく、四天王寺の虎ノ門は四神の白虎にちなむとはいいがたいです・・・。
四天王寺は聖徳太子が創建した寺ですが、聖徳太子ゆかりの寺として朝護孫子寺があります。
587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがありました。
聖徳太子も蘇我氏側に参戦していました。
結果は崇仏派が勝利したのですが、崇仏派が勝利することができたのは、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻、毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、そのご加護を受けたためであるとして、594年に朝護孫子寺は創建されたと伝わります。
587年、排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがあった587年は未年です。
十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥ですね。
すると、寅年は583年となります。
聖徳太子が生まれたのは574年なので、聖徳太子が13歳のときに毘沙門天があらわれ、17歳のときに排仏派・物部氏vs崇仏派・蘇我氏の戦いがおきて、これに勝利したということになりますね。
寅の刻とは午前3時から午前5時くらいに相当します。
23時~1時 | 1時~3時 | 3時~5時 | 5時~7時 | 7時~9時 | 9時~11時 | 11時~13時 | 13時~15時 | 15時~17時 | 17時~19時 | 19時~21時 | 21時~23時 |
子 | 丑 | 寅 | 卯 | 辰 | 巳 | 午 | 未 | 申 | 酉 | 戌 | 亥 |
また、虎は毘沙門天の使いともされています。
四天王寺の虎ノ門は毘沙門天の神使である虎にちなむと考えたほうがいいかもしれません。
ただし、毘沙門天は四天王の一であり、北方守護の神とされており、境内の東、聖霊院の南に虎ノ門があるのは矛盾していますがw。
朝護孫子寺 張り子の虎⑤四天王寺の眠り猫は日想観を修している?春分・秋分の日には四天王寺の石門ごしに夕日が望めるということで、日想観の行事が行われています。
日想観とは西に沈む太陽を見て、西方浄土に思いをよせる修業だといえるかもしれません。
特に四天王寺から夕日を望んで日想観を行う習慣が生じました。
法然や藤原家隆なども四天王寺の近くに庵を結んで日想観を行ったようです。
どなたの説なのか存じ上げませんが、四天王寺の眠り猫は夕日を拝んでいる(日想観を修している)とする説があります。
猫の門は石門から中心伽藍を挟んで、ほぼ真東に位置しています。
中心伽藍には五重塔・金堂がありますが、猫の門の正面からはずれているので、春分・秋分の日にはここから下の写真のような感じで夕陽が見えるのではないでしょうか?
四天王寺五重塔と金堂(合成)四天王寺の眠り猫は日想観を修しているという説、なるほどと思います。
⑥猫の門は聖徳太子の怨霊を封じ込める門?私は猫の門が開かずの門だということが気になります。
梅原猛さんは法隆寺の中門の真ん中に柱があるのは、聖徳太子の怨霊を封じ込めるための呪術的仕掛けであると説かれました。
それと同時に開かずの門である猫の門は聖徳太子の怨霊を封じ込めるための仕掛けなのかも?
↑ 法隆寺 中門 門が四間で中央に柱がありますが、通常の門は奇数間のため中央に柱がくることはありません。
↑ 喜光寺の門。三間で中央に柱はありません。聖霊院の奥院は法隆寺夢殿を思わせる八角堂だし。
法隆寺 夢殿そして虎=聖徳太子の怨霊であり、凶暴な虎をおとなしい猫に転じ、さらに日想観を行わせて西方浄土へ向かわせることで聖徳太子の怨霊を封じようとしたのか?
⑦牢屋のような厩に閉じ込められた聖徳太子像さらに気になるのは聖霊院内の奥殿の東に守屋祠があることです。
聖徳太子は崇仏派蘇我氏vs廃仏派物部氏の戦いで蘇我氏側で参戦しました。
戦いは蘇我氏側が勝利し、聖徳太子が物部守屋の土地と奴婢を用いてたてたのが四天王寺なのです。
上の写真は2011年に撮影したもので、記憶があいまいなんですが、柳の下に見えている赤い瑞垣が守屋祠だと思います。
守屋祠をの横側が写っているんだと思います。
そして向かって左手に厩がありますね。
厩の中には馬をひく聖徳太子像が置かれていますが、まるで聖徳太子は牢屋にとじこめられているように見えるではありませんか。
蘇我氏との闘いに敗れて戦死した物部守屋は死後怨霊になったことでしょう。
そして梅原猛さんは聖徳太子は怨霊であると説かれました。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死んでしまったので、聖徳太子は怨霊になったというのです。
聖徳太子の怨霊を牢屋のような厩に閉じ込め、聖徳太子の怨霊に物部守屋の怨霊を見張らせている?
さらに開かずの門で守屋と聖徳太子の怨霊を封じ込めている?
猫は聖徳太子、猫が見張っている鼠とは物部守屋?
眠り猫に日想観を行わせて守屋と聖徳太子の怨霊を成仏させようとしている?
四天王寺五重塔とハルカス
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